序章

 私の名前はナイトメア=ゴッドシャルク・・・。
 一病息災、多病息災なんという俗諺があるように、もしくはグレイが手配した痛い注射をするヤブ医者のせいか、この通り息災である。
 わはは。ゲフッ!
(延命措置の為一時中断)
 また吐血すると、注射という不都合な事態を招く。
 それは非常によろしくないので、さっさと本題に入るとしよう。
 いつか、この悪夢をと思い、ひそかにこの準備をしていたのだ!
 尤も、実務は・・・ゲフッ・・・
 ・・・解説は体力の限界なので、各々ここから自由に楽しむが良い。



第一章「悪の巣窟『隣のおうち』」


「なんか血の雨降った気がしねぇ?」
「えーボリス詩人ー」
「詩人なんて柄じゃないよねー」
 けたけたけた。笑い声が街に響く。
「猫には見えないものが見えるんだって。高く売れるかな?」
「流石だね兄弟!でも猫なんてありふれているよ。何か付加価値を付けなくちゃ!」
「そうだね兄弟!猫耳男が居る驚愕の事実をスルーできる僕達にも付加価値があるかな?」
「・・・おまえらなー」


 ここはとても巨大な資本で作られた、研究都市である。
 大人達は出資元について胸を張って正しいと主張することができない。
 崇高な研究者達には、とても口にすることができないような俗事に塗れた金を、マネーロンダリングの挙句、各国にバラ撒いた結果の一つだとも言われている。

 ここでは、倫理なぞ、一番の俗事である。
 優秀であれば、出自は問わない。
 優秀であれば、DNAを問わない。
 だから、霊長がねずみと混ざって居ようが、猫が居ようが、兎が居ようが
 ・・・それよりおぞましかろうが。
 優秀だと認めて、それより上を行こうとするのがここの住人の基本である。
 つまりは、アリスのような凡人の方が希少種であるといえる。

 何故、アリスがこの研究都市の住人であるかと言えば、父がここで働いているが故だ。

 母は物心付いた頃には他界した。万事優秀な姉が家庭内の実務をこなしてくれたので不自由はまったくしていない。寧ろ、半端に研究都市以外の環境がアリスの「普通の基準」があるので、ここでの生活は寂しさなどとは無縁だ。
 世擦れたところの全くない姉のロリーナは、猫耳が居ようが、兎耳が居ようが
「あらあら。まぁまぁ」
 なーんて引っ越し当日から、楚々と笑って上手くやっている。今でも、彼女の常識は揺るがないようだ。
「この街は自由な人が多いものね」

 変わらぬ微笑みがそこにある。その笑顔は引越してきた当日もそうだった。
 引越しの記憶とは、アリスにとって、人見知りをしたという、恥ずかしい幼児体験だが、ロリーナの殊更優しい笑顔に紐づく愛すべき記憶でもある。
「アリス、ご挨拶が終わるまで、お部屋でいい子で居てちょうだい」
 あの笑顔で、姉さんとなら、ここでもやっていけるかもしれない。アリスはそう確信したのだ。奇妙なことに、記憶ははじめて聞く爆音や轟音と共に残っている。
 あの時、人見知りをした相手は誰だったのか?少しだけ疑問ではある。

 それから、ロリーナはかれこれ十年以上、アリスの姉として、母代わりとしてちゃんとやってくれている。実に芯のしっかりした女性だ。自慢の姉であると同時に、この都市で普通に暮らし続けているその確固不動のたるや、最強だとアリスは思っている。

 妹イーディスは、この研究都市に引っ越してくる前に、全寮制の超難関進学校に合格して三つの頃から一人暮らしをしている。
 そもそも、今の暮らしは妹のせいとも、おかげとも言える。
 妹の超難関進学校の合格がきっかけで、父の研究が注目・評価され、この都市に招聘された。仕事に没頭してくれているので、成績は中の上という次女としては、有り難い限りだ。
 引っ越してきた当初、妹に「この街変だよ」と半泣きで連絡をしたが、冷徹な妹は「環境が変わったストレスだ。病院に行け」と言いやがった。以来、もう何年も顔を見ていない。


「アーリース」
「エース兄ィ!・・・何やってるのよ」
 隣のおうちのエース兄こと、エース=ナイト=オブ=ハート=クローンとは私が引っ越して以来のつきあいだ。
 エース兄には・・・鍛えられた。この街で無駄に生死の境を彷徨ったのはエース兄のせいである。この研究都市の有名人の一人だ。
 研究都市には不思議なことがいくつかある。
 その一つ、私が知る範囲で、この研究都市の有名人は必ずと言っていいほど、名前に「クローン」が入るのだ。しかし、これは外部には伏せられている。
 エース兄に尋ねてみても、まともに答えが返ってきたことはない。
 ただ、血縁ではないと言う。・・・そりゃそうだ。猫耳と兎耳と鼠耳が血縁な訳がない。
 エース兄とは、性別も何も関係ない頃からの付き合いで、子供プールでも遊んだし、いわゆる事故映像のようなものが記憶にある。…つまりは外見性別が人間の男性だということを目視した経験があるのだ。きっとエース兄も同様だろう。

 そして「クローン」を冠する人間は、必ず特別カリキュラムが義務教育の他に課せられる事実を知っている程度の隣家のお兄ちゃんなのである。


「何ってこうして、君の部屋のバルコニーに登って遊びに来た」
「玄関からっていう正規の攻略ルートは無いのかしら?」
「こっちの方が近道だと思ったんだ」
「・・・」
 何という奇跡だ。その近道は珍しく正解と言えなくもない。しかし、何から伝えればいいのか、常に予想の斜め上を行ってくれる人だ。

「あ、宿題?」
 デスクの教科書をひょいと摘まみ、さっと目を走らせる。
「アリス真面目」
 教科書を取り返したら、次はノートを。
「返して!」
「・・・真面目なのはいいことだと思うけどさ。これ、式を展開した後、右辺に移項したところから間違っているぜ」

 ひょいひょいと、アリスの手をよける。・・・それが、攻撃の手になっても。
 むかつくことに、この放浪の兄は、非常に文武両道である。
 モテの必須条件、ルックスは申し分ない。社会的ステータスもある。
 普通にジャンプしてもエース兄に届く訳もないので、ベッドに踏み台に高さを突けて、エース兄に飛び掛る。狙うは喉元。
 エース兄はいつも、ちゃんと受け止めてくれる。怪我なんかしない。確信犯だ。

「努力賞・・・にも及ばないけど。まあいいや」
 片手で抱きとめて、ノートは机の上に返してくれる。
「うーん。発育途中?体重が・・・」
 思わず引っ叩こうと、手を挙げたら、エース兄はわざとバランスを崩す。
「わっ!きゃ!」
 エースは悲鳴を「ははははは」と笑い飛ばす。
 ぼすっとベッドにアリスと共に倒れ込んだ。

「・・・っ!」
 マットレスとエース兄の胸板の間に挟まれる。圧力にアリスは酸素が足りなくなる。
 それを求めて深く呼吸をすると、エース兄の香りがした。
 どこを歩いてきたのか、葉っぱを頭にくっつけて。

「うーん、ちょっと柔らかくなったね。あの方のお茶会に入りびたりって本当なんだね」
「ちょ!どこ触って!コラ!」

 思いっきり暴れる。これくらいで、エース兄が怪我なんてする訳がないのだ。
 この研究都市自治政府は、飛び級制度も用意している。この研究都市には四大私設研究所があり、エース兄は、その一つに所属している。

「アリスが俺のクラスに飛び級することはないんだよな。じゃあ学生生活なんてさっさと終わらせてしまうのが国民の義務ってやつだよな」

 そうやって、アリスを馬鹿にしつつ、飛び級を繰り返し、もう何年も前から第一線で働いている。・・・結構な高給取りらしい。
 研究内容は軍事の実務分野なので、剣呑なことこの上ない。


「あはは。アリス、最近スカートの丈、短いよね」
 指摘されて、赤面する。さっきまで、脳裏を他のことで占められていたので、反論より、反射的な質問が出た。
「・・・見た?」
「うーん?見て欲しかった?」
 いつも近すぎるエース兄の顔。唇しか見えないが、少し意地悪に歪んでいる。
 長年の付き合いだ。いつも爽やかな笑顔で評判だが、私にはエース兄のどす黒い部分が少しだけ分かる。
 アリスは沈黙し、身じろぎするが、エース兄はぐっと押さえ込んで、大腿のスカートの裾を指で辿る。

「まさか、研究所にもこの丈で行ったりするなんて、馬鹿なことはアリスはしないよな?」
 その質問に答えるどころではないのだが。
 アリスは必死に思考を逸らす。エース兄の所属研究所の所長の顔が浮かんだ。


 彼女は専ら女王陛下と揶揄される、ビバルディ=クイーン=オブ=ハート=クローンという名を持つ。まさに人中の獅子といった天才だが、所内の重役には眠れる獅子としても有名だ。多額の税金や企業献金が投入されているので、研究所はそれをひた隠しにしているが、本人に頓着が無い。

 どんな研究も、発表するのが退屈とのことで、殆ど世界の秘密があの美貌の顔の下に埋もれている。彼女の頭の中には、ダークマターの実質的な答えもホワイトホール論についての解答も出てしまっているらしい。しかし、論文に纏めるのすら面倒な彼女は実験も同様で
「面倒じゃ」
 そのひとことで、副所長であり、実務もする事務総長にされてしまった哀れなキング=オブ=ハート=クローンが頭を抱えている。彼もまた優秀な研究者であった(らしい)のに。
 それでも、彼女の椅子が安泰なのは、定期的に獅子奮迅し、学会に獅子の咆哮が轟くような研究成果を出しているからなのだ。

 同研究所には、絶対に研究都市から外にその姿が漏れることのないペーター=ホワイト=クローンという彼自身が生命の神秘のような白皙の美青年が居る。・・・兎耳さえなければ、アリスの心は大きく揺れたかもしれない。

 研究内容は政治から、徹底した雑菌消毒について迄多岐に渡るが・・・
 ・・・これまたやりたい研究しかやらない。内部からしか見えないこともある。


 そんな実情について、研究所に気軽に出入りできる人間しか、知らない。前提として、誰も信じてくれやしないだろう。
 そもそも、気軽に出入りできる人間なんて数えられる程にしか居やしないのだけれど。

 とても高度な研究をしているくせに、各研究施設のセキュリティはそれほど厳しくない。産業スパイは生きて帰れないと評判だが、そんな命知らずなことさえしなければ、とても快適に最先端技術を見学に行ける、とても興味深い施設だ。
 だから今日の帰りもそこに寄ったのだが・・・


「無視するなんて、酷いな。本当に、君って学習しないよな」

 マットレスの上で、何とか平静を取り戻そうとしていたアリスに、エース兄が悪戯を仕掛けた。いつも不機嫌になると、好意的な言葉に悪意を込めて、自分の方に意識を引っ張ることをアリスは熟知していた。それでも、近すぎる距離は時々失敗を齎すのだ。
 首筋にかかる吐息さえくすぐったいのに、おもむろに脇腹を擽られた。
 エース兄の指は長い、付き合いも長い。どこが弱いかなんて、知られ尽くされている。

「反則っ!」

 声にならない悲鳴をあげて、アリスはしばらく玩具にされて、力尽きた。
 酸欠の頭で、しばらくぼうっとしていると、にっこりと爽やかに微笑まれた。

「ノートに赤ペン、入れておいたから、よく読んでもう一度説いてごらん」

 じゃっ!
「・・・窓から帰るなっつうの・・・」

 アリスはよろよろとデスクのノートを引き寄せた。
 にゅっとエース兄の顔が窓から突き出た。

「言葉遣いと服装の乱れは不良への第一歩だぜ」

 涼やかな笑顔だが、手はわきわきし、視線は剣呑だ。無言で必死に頷くと、笑顔の悪魔は「よーし」と朗らかな声をあげて、悪の巣窟『隣のおうち』に戻って行った。


to be continued...


■寄稿の再録■
おー…よかったオリジナルが残っていた…うっかりフォルダ削除ちゃっていたり(どじっ娘☆)
メールで添付ファイルで投稿したのが残っていた。
ちょっと改行直した程度。ラブコメ目指して書いたから妙テンション
Faceless@MementMori 03/04/2010