第三章「恋をしようよ」

 途次(みちすが)ら二人は無言だった。
 エース兄はいつもと変わらぬ、アリスに歩調を合わせるでもなく、一足飛びに駆けつけることができる範囲には居る。
 いっそ見失って欲しいのに。

 暮れなずむ空、美しいあの人は、少し具合が悪そうだった。今更ながら心配になる。どうして自分はこう気が利かないのだろう。
 さっきまで居た研究所はこの都市でも美しい町並みの残る地域、広大な宮殿とそれを取り囲む森を利用して、作られたものだ。

 そこから、旧繁華街まで延びる景観保護地区は、懐古趣味のお金持ちの住まう一等地である。百貨店ですら、そのような佇まいになっている。

 そして、新繁華街へと抜けると、世界中どこの都市でも一緒の、雑然としたビルが立ち並ぶ。昔のスラムで、今はこの研究都市の恩恵に与ろうとする企業のビルと、そいつらの野心から金をふんだくろうとする逞しい人々のせめぎあいの町だ。
 混沌として、しかし、活気に溢れている。
 学校も、家もその繁華街をつっきって新しく拓かれた土地にある。


「涙は乾いた?アリス」
 唐突にエース兄がそんなことを言う。泣いてなんかいないと、反論しようと顔を上げると、手を掴まれた。

「走って!」
 言うが早いか、背中に手を添えられ繁華街の小路に入る。
 両手を広げて、それよりやや広い程度の道幅、追跡者は姿を隠すのを止めた。

「何?誰?どうして!?」
「ははは、余裕だね。アリス。その質問、今答えて聞き取れる?」
 アリスは黙って、エース兄の言うままに走った。命令するなとか、こんな時にまで馬鹿にしてとか、色々言ってやりたいことがあるが、今じゃない。
 後方で何かが爆ぜるような音がする、エース兄がゴミ箱を蹴倒したのだろう。この小路ではそれが多少の足止めとして、有効なようだ。


 流石に息があがる。どのくらい、走っただろうか?
 エース兄ひとりなら、最初の小路に入ったところで、問題解決だっただろうが、ビバルディからの贈り物を抱え、アリスを連れている。
 若干、愉しんでいるようにも見えるが、そうでないエース兄を見ることの方が珍しい。
 アリスは早々に思考を放棄し、運動に全身の血流を優先させた。

「アリス、こっち」
 複雑に入り組んだ裏通り。ビルの裏口だろうか、そこに引き込まれ、エレベータに引き込まれた。屋上へのボタンが押される。
 扉が閉まる前、エース兄はエレベータの入り口を滑りぬけ、降りた。

「屋上で会おう」
 耳元に触れるかどうかの掠めるような吐息かキスのようなものが残され、アリスはしばし呆然とした。

「待って!」
 慌てて、扉を開けるボタンをカチカチと何度も押すが、遅かった。エレベータが上昇し始める。アリスは諦めて、その場にへたり込んだ。

「・・・エース兄じゃ、屋上になんて辿り付けるわけないじゃない・・・」

 荒い呼吸と共に、どっと汗が溢れる。心臓も抗議の勢いでがなりたてる。途中階に停止するようボタンを押そうか思案したが、エース兄が屋上と指定したので、呼吸が荒いせいで震える指先はそれを諦めた。

 先ほど、扉が閉まる前、鈍色の煌めきがエース兄に向かっていた。あれは刃物以外の何物でもない。

 アリスの呼吸が乱れる、平静を保とうとして深く吸い込むと、より体に振るえが来る。エレベータはすべるように上昇を続ける。
 ここは、一体どこだろう?
 エース兄に無茶苦茶に連れて走らされ、全くわからない。くすんだ色をした箱状の乗り物は止まることなく、屋上に進んだ。

 鞄はある、ポケットに鍵もある。

「私は、お姫様じゃない・・・エース兄だって、正義のヒーローじゃない・・・」
 つまり、都合の良い助けは期待してはいけない。

 エース兄は、窮地はとりあえず逃げろ。それが現実だと小さい頃から教えてくれた。
 エレベータが屋上で止まる。隣接ビルの屋上から飛び移ってきた二人組みが誰かを探すように、警戒した動きをする。
 エース兄の馬鹿!屋上に逃げ場なんてある訳ないじゃない!心の中でアリスは悪態を付く。

 男達は、無線で何かやり取りしながら、一人が警戒しながら、向かってきた。当然、エレベータが動いたのは分かっただろうが、少女一人の身柄確保だと油断してくれれば、アリスにも微々たるものだが勝機がある。が、それは男の声で儚く散った。

「投降しろ。こちらには暗視対策がある」
「投降ってどうすればできるのよ!」

 アリスは反射的に叫んだ。今までの人生で投降する機会なんて無かった。自分より強い相手に感情をぶつけても、悪い解決を招き寄せるだけだが、イライラする。幸いにも相手が戸惑った気配をした。そのまま見逃してくれればいいものを・・・警戒したまま、こちらに向かってくる。

「両手を頭の後ろで組んで、跪け!」
「わかった!」
 アリスは喉が裂けるかと思うほど、自棄で叫んだ。
 コツン、コツンと、男達が近寄ってくる。足音を隠していないので、二人だ。うち一人が、アリスの頭に何かを突きつけた。頭部が地面に近づき、アリスは生唾を飲み込む。

 鈍い音がして、どさっと荷が落ちるような音がした。

 振り向くより先に、アリスは、二人組の一人に、襟首を掴まれて、そのまま、投げられる。
 男の力が強すぎた。
 意味の薄いフェンスに叩きつけられ、痛みを感じるより先に、体が無重力を感じた。
 もう一つの重たい音とほぼ同時、耳元で風が吹き上げる音と同時に、肩が脱臼するかと思う位、引っ張られた。

「・・・アリス、脂肪の素って効果あるんだね」
 言葉と共に、エース兄の胸に引き寄せられた。足元には、コンクリートの感触。
「・・・太って悔いナシ」
 ま、俺は肉付きの良い子の方が好きだけどね。
 嘯くエース兄に、素直になんてなれる訳がない。時々、エース兄の誘導に乗せられたような気になる。
 娯楽映画なら、ここで、キスの一つもぶちかましてハッピーエンドになるところなのだが、エース兄はシビアにさっさとアリスを放置し、男達の安全帯を使って、縛り上げる。

「男をいたぶるシュミなんてないんだ。・・・足音立てるなんて、素人だよ。転職した方がいいんじゃない?」
 感謝してくれよ。そう言って、二人の大男の襟首を掴んで、クラッカーにする。少なくとも脳震盪は起こしただろう。ぐったりした男をさして重くもなさそうに引きずって、ビルの縁に立つ。

「さて。禍根は断ち切るべきだよなっ」
「・・・やめて」
「また襲ってくるかもしれないぜ?」
 アリスは迷った。おそらくエース兄の言うことの方が残念ながら事実だ。

 コンクリートに男達のインカムが落ちている。先ほど落したのだろう。そこからは、慌しい応答連絡が飛び交う。

「・・・の暗殺失敗。服毒は確認できましたが、問題なく処置が行われ、回復したようです。第一拠点に向かって、攻撃が仕掛けられています」

「ペーター=ホワイト=クローン総統作戦失敗。一個旅団壊滅。情報を待て」

 誰を毒殺しようとしたのだろうか?未遂で済んで結構なことだ。
 ペーターも無事のようだ。既知の人間が誰かの手にかかるのはやはり忍びない。

「応答不能と判断。現時点でエー・・・」

 エース兄は楽しそうにインカムを踏み潰した。どうする?と言いたげに、アリスに向けて小首を傾げる。

「・・・官憲に引き渡すべきだわ」
「正当防衛の立証って面倒だよ。それに、きっとすぐ偵察がやってくる」
「・・・じゃあ、間を取って、放置でどう?さっさと行きましょう。面倒だわ」

 アリスは大真面目にナンセンスな交渉をしたつもりだが、エース兄には、それは可笑しそうに笑われてしまった。
 眦に、涙まで滲ませている。憮然としながらも、エース兄が笑いを治めるのを待つ。

「・・・君がそうしたいなら、それでいいよ。これ以上、君がこいつらのことを考えるのは、面白くないしね。・・・アリスおいで」

 そんな言い方されては、アリスに従う他に術はない。
「まさかとは思うが、君はこの男達が好きなのか?」
「そんな訳ないでしょう!初対面で襲われたのよ!?でも初対面で殺したくなるような間柄でもないわ!」
 エース兄は笑う。こんな闇夜に似つかわしくないほど、爽やかに。

「目を瞑って、お互いの為に。いいって言うまで、ね。目を開けたら・・・分かるよね?」
 どこか艶を含んだ、でも脅迫めいた言葉。しっかりとエース兄に抱きすくめられる気配、ちょっと体が強張る。

「ここ、掴んで」

 目を閉じたまま、手を掴まれ誘導される。ふわっと、無重力と遠心力で頭が揺さぶられる感覚がした。ローラーコースターに乗った時の気分だ。
 そして何度か体が振り子のように揺れる。首に負担を感じるのだ。
 絶叫すべきか、どうか、迷っているうちにそれが、止んだ。ふわふわするが、地面の感触もちゃんとする。そっと目を開けると、エース兄の顔が近くにあった。

「・・・いいって言うまで、開けちゃ駄目だって約束しただろ?」
 エース兄の顔はからかうように引いていった。

 ・・・いつもやられっ放しなのは気にいらない。
 アリスはぐいっとエース兄の襟を引き、頬に口付けた。
「お礼!」
 突き放して、ぐいっと手の甲で唇を拭う。エース兄が何も言わないことが気まずい。

 エース兄は鞄も降ろしてくれていたが、どうやらロープで壁伝いに二人で降りてきたようだ。レスキュー隊かよとツッコミたいが、エース兄ならロープ無しバンジーだってやりかねない。

「・・・どうしてエレベータや階段使わないの!心中なんて御免被るわ!」
「えーだって、各階屍累々だせ。踏むと靴汚れるよ。それにアリスは見たくないんだろ?」

 エース兄は、ぽんぽんと服の埃を払う。子供っぽい仕種に、勢いが殺がれそうになるが、ぐっと腹に力を入れて、アリスは声を張る。
「ええ、もう沢山よ!人生で娯楽映画のように命張る気はないの!」
 鞄を拾い上げて、大通りに向かうの目星を付ける。さっさと歩き出す。


「アリス」
 エース兄はアリスとの歩幅の違いを見せ付け、余裕で追いついてくる。
 アリスはもう駆けだした。

「アリス」
「うるさいっ!エース兄の馬鹿っ!なんで、こんな目に遭わなくちゃいけないの!」
「最近、街に変質者が出るって、学校で聞かなかった?」
 ぐずる子供を諭すような声にとても頭が来た。

「あれは変質者じゃない!あんな組織立った変質者なんて怖すぎる!」
「じゃ、何?」
 問われて、アリスは答えに窮した。歩調も緩んでしまう。

「じゃ、とりあえず変質者だ」
 エース兄に反論する気力は失せた。今日は疲れた。もう、なんでもいい。生命の危機を感じたせいか、食欲もどこかに飛んでしまった。

「なぁ、アリス」
 エース兄は真面目な顔でアリスを見つめた。どうしても、どぎまぎしてしまうのは、惚れた弱みか。

「・・・街灯にぶつかるよ」
 顔面からぶつかるような間抜けなことはしなかったが、バランスを崩してしまった。
 ぐちゃっと嫌な音がする。

「あーあ。あの方から貰った、形の崩れにくい菓子だったのに」
 エース兄が抱きとめてくれたが、焼き菓子の箱が潰れてしまった。香り付けのリキュールの甘い香りがエース兄の胸とアリスの顔の間で文字通り潰れてはじけた。

「あーあ、汚れちゃった。顔を突っ込むほど食べたかったのか?君は面白いなアリス!」
「・・・エース兄の馬鹿!!!うるさい!!!」
 鞄をぶん回して、アリスは抗議した。当然のように、エース兄は簡単に避ける。

「避けるなぁっ!」
 エース兄はムキになるアリスとは対極に、愉しそうに笑声をあげる。ふっと間合いを詰めて、アリスの手をやんわり止めた。可動関節の範囲を熟知したエース兄のよくやることだ。

「・・・さっきは避けなかっただろ?」
 そんな不意打ちに、アリスの動きが少しでもぎこちなくなれば、エース兄はそこを付いてくる。さっと腕を取られ、引き寄せられる。
 頤を抓まれ、驚きで反射的に突き放そうとするが、微動だにしない。

 しばし悪戯っぽい視線を大量に浴びた後、頬に残った菓子の欠片を、唇で掬うように取られた。
「・・・甘いなぁ」
 ともすれば、恋人達も胸焼けする雰囲気。しかし、アリスの頭にあるのはからかわれた怒りのみだ。アリスは静かに心情を告げる。

「エース兄ィ・・・あんたが変質者だ・・・」
「・・・アリス、君は時々、心底酷い」

 でも、これで、おあいこだよ。エース兄は笑った。アリスはプイと他所を向く。しかし、居た堪れなさと好奇心から再び口を開くのはアリスだった。

「ねえ、エース兄。どうして、屋上まで辿り付けたの?」
「教えてもいいけど、何かくれる?」
 例えば、君の純情とか? 仔犬のような笑顔で、凄いことを言うが、どうせ、エース兄はからかっているのだ。せいぜい、取るに足りない目下の者として、困らせてやればいい。

「・・・いいわ」

 アリスだって、成長をしたつもりだ。ありえない冗談をエース兄にさっさと昇華させて欲しかった。しかし、それはすぐに挫かれた。

「ふうん。じゃ、君は今から俺の恋人だ」
「はぁ?」
 世界で一番間抜けな声をアリスは出したと思う。

「約束通り、答えをあげるから、今晩、待っていて」
 エース兄は夜風を受けて、気持ち良さそうに目を細めた。
 見かけだけは、さわやかな笑顔をこちらに向ける。

「アリス、恋をしよう」
 辛うじて、髪に絡まっていた、薔薇の髪飾りを摘まみ、くしゃりと握りつぶす。
 呆然とする、アリス玄関先に送り届けて、再び悪の巣窟「隣のおうち」に帰って行った。

to be continued...


■寄稿の再録■
おー…よかったオリジナルが残っていた…うっかりフォルダ削除ちゃっていたり2(どじっ娘☆)
ちょっと改行直した程度。手直しし始めたら、きっと再構成。
Faceless@MementMori 03/04/2010