第五章「愛の言霊」

 有限実行。そういえば、ペーターは後で訪ねるという恐ろしいことを言っていた。エース兄と一悶着起きたのは当然過ぎる結果で、食傷気味だ。

 結局、姉のロリーナが仲裁に入った。アリスを隣の部屋で待つように言った。
 何故か耳栓を渡された「決して、明日の朝まで、外しては駄目よ」そう優しく微笑んで。

 耳栓をしていても、ペーターとエース兄が暴れたことくらいは、建物の揺れと頬に伝わる振動で分かる。

 今更だろう、アリスは耳栓を有効活用し、普段は客室として使用している部屋でしっかり睡眠を取って、心地よい目覚めと共に耳栓を外して部屋を出た。


「・・・あら、アリスおはよう。早かったのね。・・・もっと眠っていても、良かったのよ?」
 ロリーナが、何だか黒光りする一抱えもある箒のようなものを、物置に放り込んだような気がしたがそれより、昨夜のことが気になった。

「姉さん、昨日のことだけど」
 ロリーナは優しくアリスを引き寄せ、髪を梳いてくれる。

「大丈夫よ、アリス。二度とこんなことはないわ。お二人がすこぉし暴れて、お庭が乱れたけれど、それだけよ」

 背を撫ぜてくれる気持ちよさに、幸せな気持ちで満たされる。
 そうだ、これが私の幸福だ。ロリーナ姉さんの庇護、エース兄との少し背伸びした冒険。幼馴染との恋なんて、淡い思い出と共に封じてしまえはいい。
 何かしら好意を向けてくれる双子の酸味の強い好意の方が分かりやすいのだから。
 美しいビバルディ、偏執狂ながら向こう見ずで一方的な愛を捧げてくれるペーター。それらを抑止する、キング・・・
 不意に訪れた、大人の秘密・・・マフィアとしての帽子屋ファミリーの二人。ブラッドとエリオットと言っていた。

 違和があるような気がするのは、凡才の自分が、これほど非凡な人材の集まるところに居るからだ。


「ふふ。今日は休日なのよ、アリス。今日は公園でピクニックをしましょう?」
 蜂蜜を溶かしたホットミルクのように、甘い声。

「本が欲しいと言っていたでしょう?先に着替えて、時計塔の近くの書店にいっていらっしゃいな。・・・沢山買うならあなたには古書店の方がいいかしら?どちらにしろ、お店の人に届けて貰えばいいわ。懇意にしているし、お父様がサインをするから」
 アリスはロリーナをきゅっと抱き締めた。
「嬉しいわ。アリス・・・」
 ロリーナもそれを示す。いつしか二人はじゃれあって笑っていた。

「美味しいハムがあるの。鴨のテリーヌもバスケットに詰めて、ちょうど飲み頃のエルダーフラワーのシロップをソーダで割りましょう。今朝はマドレーヌを焼いたのよ。お昼頃、王立公園で待ち合わせをしましょう」
 アリスは頷いて、ロリーナが客室に用意してくれた服に着替え、時計塔広場へ急いだ。


「歴史書、旅行記、小説・・・建築評論、ファッション誌」
 恋愛小説は、興味があるけれど、父の支払いでは買いづらい。風刺の効いた辛口の作家や、ドキュメンタリーにする。
 女の子なら手芸の本でも買うべきだろうか?しかし、本職の仕事の方が安くて美しい。

 さほど大きくない、歴史のある書店。品揃えがアリスの好みに合っていて時々顔を出す。古書店は、もっと格式の高いところ。コレクターが探すような初版本やサイン本まで並ぶ店主の風格が出ている店だ。

 急いで回ったが、良い買い物ができた。
 我知らず、微笑んでいたかもしれない。
 まだ、時間がある。時計塔広場では時々、のみの市が立っていることもある。休日ならば、大道芸人くらい居るかもしれない。アリスは足を伸ばした。


「あれ?エース兄ィ・・・」
 昨夜、不可思議な目にあわされて、からかわれて、散々だった。
 できれば今日は余り顔を合わせたくない。
 人影でそっとやり過ごす。
 エース兄と同じくらいの体躯の髪の長い人物と連れ立っている。

「女の人・・・違うな」
 美しい光沢のある髪を無造作にひと括りにして、顔が余り見えない。ただし、女にしては、上背がありすぎる、エース兄と肩を並べているのだ。そして、何よりダークトーンの丈の長いジャケットと、そのごつごつした手を観察して女性と断言するには、無理がある。

 二人は、とても親しげだ。
 髪の長い男性は、知った顔なのだが、どこの誰で、何をしている人なのか、思い出せない。

「・・・遊園地・・・」
 途切れ途切れに、拾えた単語から察するに、二人で遊園地に向かうらしい。
 男二人で遊園地?
 何だが、釈然としない気持ちと、エース兄の秘密の一面を垣間見たような悪甘い気持ちになった。回り込むと、また新しい単語が拾えた。

「・・・歪みが・・・ユリウス・・・」
 エース兄と一緒の青年は、ユリウス=モンレー=クローン。確か時計塔の首席研究員。アリスも名前しか聞いたことは無かった。有名な引きこもり系研究員で、職場から出ないと言われている。仮に、外で彼を見つけて、祝福の言葉をもらえれば、どんな困難な試験も通過できるなんて生きた都市伝説がある。

 なるほど、一種の勇気試しになるだろう、その気難しそうな顔は都市伝説に一抹の真実味を加えるのに適している。

 エース兄はその容姿から、実年齢より幼く見える。きっとユリウスはその逆だろう。実年齢もエース兄より上であると思われる。・・・恐ろしく太陽の下が似合わない男だ。
 人影に視界が遮られた瞬間、二人の姿が雑踏から消えた。

「・・・遊園地に向かったのかしら」
 だとすれば、男二人でお寒い話だ。

「うーん、逆だね。遊園地から戻ってきたというのが正解」
 頭上から声が降って来た。アリスはびくりと体を強張らせる。声の主が分かっていても、人間驚く時は驚くのだ。

 昼日中の市街地。石造りの美しい噴水広場、大道芸人たちを眺められるベンチには肩を寄せ合う恋人達も居る。手を繋ぎ寄り添う姿も珍しくない。
 エース兄は掌を組み、それをアリスの首飾りでもかけるかのようにして抱き寄せた。

「・・・っ!誰かに誤解されたら困るじゃない!」
 振りほどこうとすると、エース兄はぐっと力を入れる。

「君が困るの?それとも俺が?」
 厭味も込めて両方だと言おうとしたが、その腕を解かれ、背中の温かさが離れると心が痛んだ。
 寒い日の朝、幸せの温もりで満ちた寝床から出たくない。しかし、そこから出なければいけないのだ。

「なぁ、アリス。何故オリジナルはクローンを疎ましく思うんだろう?」
「・・・エース兄?」
 振り向こうとすると、エース兄は背後に立ったまま、片腕でアリスの目を覆い、もう片方でアリスを抱き留めた。

「・・・目的を持って作ったんだろうに、ね」
 悪意には悪意が向けられる。オリジナルは支配欲をクローンに向けるのは創造主の意識があるのだろう。驕慢かもしれないが、理解できる。しかし、クローンだって一個生命体ならばアイデンティティを主張したいだろう。

「私はクローンじゃないから、分からないわ」
 背後でエース兄が少し笑った気がした。

「じゃあ、誇り高きオリジナルは、クローンごときの手には入らないのかな?」
 エース兄の言っていることは抽象的でよく分からない。
 アリスが答えるより先に、エース兄が言った。

「試してみればいいんだよね?」
 薄い剃刀のような微笑が目の端に映った。その後のアリスの意識は剃刀で撫でられた糸のように途切れた。



 雨が降っている。
 アリスの耳がそれを拾ったところからゆっくりと意識が浮上した。
 ゆらゆらと石造りの天井を舐める光は、蝋燭の焔。首を擡げるのは、まだ億劫で体を丸めるようにしてそれを確認した。
 ここはどこだ?
 漆喰の壁は剥落箇所があり、使われていなかった部屋といった体だ。
 不意に雨が止んだ。否、雨ではなく、シャワーだったらしい。サボンの清潔な香りと共に、バスローブ姿のエース兄が現れた。無造作に濡れた頭をタオルで拭っている。

「ああ、ごめんね?一仕事終えたばかりで、さっぱりしたかったんだ」
 ぐらぐらする頭。口調から察するに、エース兄は悪いなんて微塵も思っていないだろう。それでも立て板に水とばかりに、その笑顔で流すのだ。

「君は倒れたんだ」
 結果論だ。エース兄が手刀の一発でもくれたのだろう。視線で異議を唱えても、有無を言わせず却下される。気を失わせるだけなら他の方法もあるだろうが、しばらくダメージを残して、逃げ出す算段を取れないようにするのに、この方法を選んだのだろう。
 骨が折れなかっただけ幸いだ。

「ここは、時計塔で俺に貸与された部屋」
 予想外の言葉。エース兄の所属ではない。ともすれば誰も知らないだろう。

 衝立の向こうでエースが楽そうなボトムに着替える。まだ暑いらしく、上着はアリスの横たわるベッドボードに無造作に掛けた。頭はタオルを被ったままで、ベッドサイドに用意された、水差しとグラスを手に取る。
 水を一杯、一息に飲み干し、グラスを置くと、横たわったアリスの傍らに腰掛ける。

「・・・ねぇ、アリス。これでも俺はエース兄なのかな?」
 肉食獣が捕獲した獲物を押さえつける。・・・それにしては、随分甘く、両脇に腕を付いただけだ。
 ぽたりとエース兄の髪から滴る雫が、アリスの頬に落ちる。
 エース兄は笑って、タオルでアリスの頬を拭った。

「目を覚まさない君が可愛くて仕方なかった」
 君が上着を掴んで離さなかったから、大変だったよ。
 言われて、アリスは自分にかけられているのが、エース兄の上着だと言うことが分かる。

「・・・姉さんと約束があるの。行かなくちゃ・・・」
 揺れる頭、エース兄の肩を掴み、体を起こす。エース兄は存外優しく背中に手を添えて起こしてくれた。

「意地っ張りだなぁ。まだ瞳が定まってないぜ」
 誰のせいだと心には悪態が満ちる。しかし、鼻腔からの、太陽を浴びた綿の・・・思わず頬摺りしたくなるような香りに掻き消されてしまう。

 迷惑料だと思って、エース兄に体重を預けた。添えられた手の力が強くなった気がするのは気のせいだろう。

「エース兄・・・」
「既成事実でも作れば、兄とも呼んでいられなくなるかな?」
 言葉と共に、ぐっとアリスを引き寄せ、アリスの首筋に唇を付ける。ウェストのリボンを引っ張り、解かれると流石に心臓が跳ね上がった。

「・・・なぁアリス。俺は君のことが好きだ」
 投げられた言葉は、いつにも増して、現実感が無い。

「クローンの俺なら、君にルールを与えなくてもいい」
 エース兄の言うことはいつも難しい。

「俺と、この夢に溺れてしまえばいい。君が俺を兄というルールから解放すれば、契約は成立する」
 そろそろ、歪みが大きくなって、他の役持ちに気付かれるかもしれないんだ。
「・・・もっと分かりやすく話してくれたらいいのに」

 簡単なことだよとエース兄が爽やかに笑う。

「君が俺を好きだと宣言して、愛してくれればいい」
 病める時も、健やかなる時も。
 エース兄は、アリスの手首をそっと掴み、伸ばし、肘関節の内側の柔らかいところを甘咬みした。同じく、手首の柔らかいところも。・・・そのまま、エース兄の頬に手を持ってゆかれる。

 心臓より少しだけ高い位置にあるから、脈拍は実際のそれより、穏やかであるだろう。

「はじめて会った時にプロポーズしたのに、返事を聞けずに居た」
「・・・そんな電波な子供だったっけ?」
 ペーターみたいだ。
 その呟きがエース兄のカンに触ったらしく、言葉にも行動にも毒を盛る。珍しく加水分解は不可な毒素。

 相槌を返すにも困る、とても水に流して、禍根無しとはいかない言葉。
 そして行動も。
 むなしい抵抗、エース兄に鍛えられたのだ。エース兄に全て攻撃はブロックされてしまう。悲哀を含んだ笑顔で、アリスの体力を徐々に殺いでゆく。


「・・・アリス、俺は記憶も教育されたクローンだ。レプリカであることは赦されない。オリジナルに恥じない、それ以上の振る舞いを求められている。・・・だからこそ」
 エース兄はベッドチェストの引き出しを開ける。そこから取り出したのは、拳銃。

「君の愛(ハート)の言葉を俺は手に入れる必要があるんだ」
 アリスの掌に、それを握りこませる。はじめて握る、しっとりと吸い付くような重たいそれ。

「良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分かつまで」

 かちゃり、がちゃり、カチ、カチカチ。
 安全装置を外す。アリスの手とその指を使い、後は引き金を引くだけの状態にしてゆく。その撃鉄にアリスの指をかけ、エース兄自身のこめかみに当てる。

「愛を誓い、俺を想い、俺のみに添うことを、神聖なる婚姻の契約のもとに、誓うよな?」

 それは、子供の頃と変わらない笑顔。
 アリスが失ったままだった、人見知りの記憶。それは、エース兄とはじめて出逢った時のものだった。記憶がフラッシュバックする。

「・・・出会っていきなりプロポーズしたりするから、私は恥ずかしくて逃げたのよ」
 アリスは微笑んで、エース兄の頸根に抱き寄せた。
 されるがままにしているエース兄の顔は見ることができないが、緊張をしているのは分かる。

「「アリス、君は俺のお嫁さんだ」そう言ったわよね」

 互いの口許が緩むのは吐息で分かる。アリスは体をずらして、エース兄と共に横たわった。エース兄が掴ませる拳銃を引っ張り、アリスは手を繋ぐ。
 子供は時折、残酷に思い出を忘却の淵に連れてゆくのだ。それは好い思い出も残酷に与えられる。淵に引っかかっていた其れを、ようやくアリスは取り戻すことができた。

 アリスから、口付ける。アリスは体を起こし、吸い付くように、その唇をエース兄に捧げた。

「・・・君の姉さんは、なかなかどうして。俺を追い払うことにご執心だった。昨夜だって、ペーターさん共々、危うくグレネードランチャーの餌食なるところだったよ。近隣民家を吹き飛ばすのはお互い心苦しいということで、停戦協定を締結したけどね」
 でも、戦闘ナシとはいかなかったぜ。
 エース兄は、声を潜めて笑った。姉ロリーナがそんなことをするはずもない。エース兄の冗談だろう。

「・・・悪夢だわ。成就してしまったら、あとは壊れるしかないじゃない。あなたが好きよ。愛しているわ。誓いは破られることはない。誰にも壊させやしないわ」

 言葉と共に、アリスは銃口を自分に向け、頭を吹っ飛ばした。

to be continued...


■寄稿の再録■
内容、だいぶはしょったんですよねぇ。
なんて不親切な…
ちょっと改行直した程度。ラブコメだけれども、この展開。
Faceless@MementMori 03/04/2010