宮は静かな息遣いで満ちていた。

 わたくしの愛するこの宮は、今はどこからともなく、薄紅色の花弁が吹き上がるように、ふうわりと舞う。
 その美しさに静かな吐息を漏らすものには、あまつさえ、鼻腔を甘い香りが満たす。
 しかし、この馨しさを奥まで吸い込むと、ニンフ達の宴へと連れ去られてしまうという、香の罠である。
 まったく、わたくしの宮らしい趣向ではないだろうか?

 香りと花の色は、私が飽きぬよう甲斐甲斐しく変えてくれる。
 今もほら、薄紅色から高貴なる白の誇り高き香りに変わった。
 …これは、ルクソーヌ…いや、香りは、カラクシュのものか…
 まだ棘のある、若い香りだ。森林の奥…人の子が聖地と呼ぶ場所の香り。

 これら全ては、花と風の精霊の祝福。
 永久(とこしえ)のわたくしへの恋情。

 神の怒りさえ厭わぬ、その思慕を無碍にしたりはしない。
 企みごとは私の領分であり、看破してしまうから、彼らの想いに心から応える日は、未来永劫来ることはない。
 戯れのそれならば………それは、女神の口からはとても言うべきことではない。

 そうであっても、彼らは………
 ………漆黒の私の衣装を恐れず、闇色の髪に、どこか安らぐような感情を向けてくる。常に、その小さな体一杯に、悪甘い罠を張り巡らせて。

 わたくしは、そのような可愛らしく慕ってくれるもの達に、気まぐれの加護を与え続けている。


 だから、退屈はない。
 姉妹神の誰からともなく始めた、国づくりの遊びが私にはあるから。
 だから、退屈はない。
 フルークハーフェン大陸に散らばった姉妹神達が、私には居るから。
 だから、退屈はない。
 それこそが、大罪者であり、母神ベルナンディーの………


 コツ。
 錫が床で滑る音で、わたくしの意識は引き戻された。
 傍らに立つものは、薄いペリドットの瞳がわたくしの黒い姿を映す。
 おそらく、最後にこの姿を見取るもののなかのひとり。

 前述のように、我が宮に、迷い込む精霊達も少なくはない。
 かの小さきもの共は、宮の居心地が良いのか、そのまま居つくこともまま、不意に出ていったかと思うと、何やら運んでまたこの宮に戻ってくることも珍しくもなく。


 そういった小さきものの中でも、殊更好奇心の強いものが、杖に悪戯をしたようだ。
 ああ、可愛いものだ。あれの眼には嫉妬の炎がたぎっている。
 その、精霊達の悪戯を受けたものは、隠し切れない愛おしさを表情に含ませて、少しだけぎこちない笑顔を浮かべている。…うっすらと痛みを堪えるような表情を滲ませて。

 どうしようもできないでいる、杖の持ち主に代わって、私がそっと嗜める。
「悪い子達…」
 小さく手で払うと、幼子のように頬を染めて、私の背後に隠れた。
 わたくしの本質を知っていても、決して離れようとしない、なおも愛を向けてくれる可愛いものたち。

「……仕方のない子達」
 こんなに、わたくしを悦ばせて。

 でも、わたくしは彼らを置いて行くのだ。
 わたくしは、痛みなぞ、知らぬ。人の子の言うところの、非情なる面を持つ神。
 しかし、今度この小さきものたちに会った時。
 わたくしも…同じような表情をするのであろうか?

 神の嘆きは、決して好いものではない。

 感傷を振り切るように、女神らしい凛とした声で、静かな現実を告げた。
「…先ほど、わたくしを、ただの胎に成り下がる女と蔑んだ輩は排除致しました」

 杖の主の、ペリドットの瞳が伏せられ、睫で影が落ちる。
 そうすると、封じたはずの人ならざる力が溢れ出ていることに、気づいているのだろうか?
 相変わらずの魔力の強さだ。ヒトの身に封じて、それは己が身を苛むであろうに。
 しかし、これは、ヒトであることを選んだのだ。ヒトの国として在る、ルーンビナスに降りるために。

「…遺恨を残さぬよう、神族に連なるものであっても、全て一族郎党全てを抹殺し、それを知るものも全てもまた、そのように」

 淡々と事実を。
 神を堕とすということ、それを願うことの代償の…これでも片鱗だ。

 わたくしの声が宮に響く。
  ある言葉は、精霊の羽を震わせ
  ある言葉は、吹き抜ける風になり
  ある言葉は…そっと誰かの頬に涙の筋を這わせた。

 静寂が、宮に満ちる。
 わたくしは、静かに相手の言葉を待った。

「…そこまで…」
 乾口の酷い、少しもたついた声。
 憂いを湛えた瞳が、宮の床あたりを彷徨う。

 そうだ、わたくしはこの瞳を、愚かだと思い、憤りさえ感じていたのだ。

「…不満か?」
 短く問うと、存外に長い答えが返ってきた。

「…いや、…いいや……………そう…だな………」
 ふっ…と生きることへの疲れを滲ませた笑顔で、曖昧な返事をされた。

「………あなたがそう判断したのなら、必要なことなのだろう」
 ああ、なんて人間らしい表情をするようになったのだろうか。

「ええ、そうよ」
 未だ神の身であるわたくしは、短く答える。

 魔族に連なる行き場を無くした精霊が、私の袖の端を引く。
 その、小さきものの頭を撫ぜてやると、恍惚の表情を浮かべて、音も無く消えた。

 視線を外したまま、至極当然の事実を、わたくしは、淡々と語る。
「…一瞬たりとも、そのようなことが頭を過ぎったのであれば、それは神への冒涜であり、人の子が知りすぎてはならぬこと…」

 宮に、花が舞う。
 小さき優しきもの達は、私の心を汲んだのか、宮を抜ける風を少し強くし、私のヴェールを揺らす。


「即ち、罪」
 一層強くなった、毒々しい程に甘い香りは、きっと小さきものたちの慰め。


「…わたくしは、企みごとの女神シモン」
 宮に響くように、宣じた。


 傷ついた表情などしていないはずだ。
 だがしかし、女神ローレイは…もとい、ローレイだったのものは、私を強く引き寄せ、その腕に抱きしめた。

「だからこそ、わたくしは、この「神の御技」を知るものを、数えられるだけ遺した」
 …だって、細々と口伝されなければ、わたくしへの畏怖が無くなってしまうでしょう?
 そう、腕の中で囁いてやった。


 ローレイであったものがどんな顔をするか見たかった。
 腕の中でもがき、顔を向けた。

「…まったく…あなたは…」
 張り詰めた気とともに、腕の力も弱まった。

 にぃいと、私らしく笑う。
 その笑顔を控えていた宮の者達にも向けると、皆も頬を緩めた。
 皆、酔狂にも私の宮を守り続けると跪いたものたちが大勢居る。

 その中のひとつの命が、誇らしげに申し述べた。
「我が主は企みごとの女神なれば、誰にも悟らせず、この宮に帰還することもございましょうとも」
 ローレイの子飼い達程でもないけれど、わたくし達もこの宮で、決して薄い縁ではない。


 そのような我らを、傍から眺めてていた、ローレイだったのものは、複雑な顔をしていた。

 我が決断に、人の子のように我を抱擁で喜び。
 我が粛清に、少しだけ悲しそうな顔をして。
 そして、我が別離に、自分の時を思い出したのか、世に生まれ出でた赤子のように、頼りなき瞳でいずこかを眺め。
 ひっそりと呟いた。

「我らが愛するフルークハーフェン大陸と人の子を滅ぼさぬ為に、私はお前達から愛を奪うのですね」
 わたくしは企みごとの女神。だからそんな声も聞こえてしまった。


 女神ベルナンディー…それこそ、わたくし達を産み落とした胎は、そのような顔をなさったことがあったのだろうか?
 …その答えは、是であり否であろう。

 調和した自分に絶望をして、我らに分かれ生まれ出でたのだから。
 我らは彼女の希望であり、絶望の子でもあるのだ。


「………」
 まだ、人の子であることより、女神であったころの意識の方が強いローレイであったものは、ふとその目を瞬(しばた)かせた。

 わたくしより、先んじて人に混じったもの。
 …いずれ、わたくしもこうなるのかと思うと、少しだけ不思議な気がした。
 わたくしの視線に気づいたローレイであったのもは、不遜にも我に問う。

「あなたは、常に愛はたくらみとたわむれだと言っていたのに…」
「言うな…余計な記憶だけはまだ残っているようだな」
 軽口に、ふふ、と笑う声に顔を向けてみると、人心を掌握することにかけては類を見ないローレイそのものの笑顔がそこにはあった。


「ギルカタール…砂漠と盗賊の国、生きるものに過酷で、しかし、あなたに願いが届くところならば加護を与える。まったく…身内に甘いあなたらしい…」
「愚問…愛玩する…いいえ、ちゃんと愛おしいわたくしのギルカタール…どう称されようとも、いつか、わたくしが人に鎔けたとしても、この加護は変わらない」

「わたしだとて、同じですよ」
 気難し屋の多いルーンビナスの精霊達でさえ、なるほどローレイに尽くしたくなるであろう、そんな笑顔を姉妹神であった私にさえ、向けるのだ。

「…変わらぬな」
「ええ、変わるには、まだ時間が足りません」
「お前はまだ『ローレイ』でありすぎる」
「ふふ、だからあなたを…シモンをこうして抱きしめに来ることができたのかもしれない…あなただけに手を汚させてしまいましたね…」
「なんの。汝にも痛みは引き受けて貰う」

 手厳しいとローレイであったものは笑った。

 これから転生を重ねてゆく上で、摘み取らねばならぬものは、ローレイにも多くあり、また私シモンもそのように。
 神格を捨ててまで護るべきもの。と、ローレイはフルークハーフェン大陸を言った。
 ローレイは愚かだと言ったシモンも、またフルークハーフェンに降りようとしている。 ただのフルークハーフェンならば、その気は起こらなかったかもしれない。
 しかし、気が遠くなるほどの昔、一つのものだったことを体が、心が、惹き合うのか…ローレイが鎔けたそこに、自分も堕ちてみようと思う。

「…我が名はシモン。汝(なれ)の、企みごとには私の加護を」
「あなたの加護とは心強い」
 ローレイであったものは、破顔してみせた。
 人の子と寸分違わぬ、温もりのある笑みだった。

 完全な人になり、我らはいつか、人同士としてその温もりで抱擁できる日がやってくる。

「これは、気の遠くなるような、長い企みごとですが…それでも?」
「何を今更。…わが名に懸けて」
「あなたは企みごとの女神ですよ?」
「…抜かせ。我を人に堕とそうとするものが言うことか?」
「それもそうですね」
 ふふふ、と先ほどより長く笑って、ローレイは長い安堵の溜息を吐く。

「…ああ、その体はもう長くはないのだな」
「死臭でもしますか?」
 おどけた仕種でローレイは鼻をひくつかせる。

「らしからぬ…」
 わたくしも笑ってしまった。
 しかし、これで、憂い無く人の子になれると思った。




「アナナス、ジュリン、シルビア、ラシャーン…」
 ローレイであったもの。今は滅びが近い人間が、私隣で唇を薄く開いて、姉妹神達の名を呼ぶ。

「フォルシモ、ナルシッサ、ティンク、ヴィーナ…」
 わたくしも、それに追従して、変わってしまったが、変わらないローレイの今の声を愉しむ。

 順に23体の姉妹神の名を読み上げてゆく。
 その姿と、加護をする国が瞼に浮かぶ。

「…ローレイ。私であったもの。人の子になるまで、ルーンビナス王家に必ず転生を繰り返す」
「…シモン。これから私でなくなるもの。人の子になるまで、ギルカタール王家に必ず転生を繰り返す」

 これで、全25体、皆これからどのようにするのであろうか?

「我ら女神ベルナンディーの娘であり、血を分けた姉妹…」
「…いつか、人の子として会える日が来るまで…」

 ローレイであったものが、先に転生の旅に立った。
 それを見送り、シモンの意識も深淵に堕ちる。


 くるくると渦を巻き…宮には嘆きの花吹雪が舞う。

END


■あとがき
 アラロスネタ。
 誰も書かないだろう、女神達(?)の話。
 …どうして、こうニッチなものばかり書くんだろうね…
 CPで書きたいのもあるが、時間は平等に1日24時間。

 大陸シリーズは携帯アプリで。アラロスと魔法使いを。
 まだクリムゾンはやってなーい!
 携帯不携帯なわっちが珍しく携帯でぴこぴこしていたので、何かがあったかと思われた。
 アラロスは一応全部のENDを見た。
 魔法使いは、おおよそ全員を見たと思うのですが、いわゆるフルコンプではないです。

 アラロスはスチュアートの達成ENDが一番好きです。
 マイセンは別格。
 魔法使いは、平等に好きだったなー
 リメイクされると変わるかもしれません。

 何が大変だったって、25神全ての名前がまだ公開されていないことだ。
 一年に一作発表されるとして、単純計算25年かかるんですよね?
 …全部作ったりはしないってことかなぁ?
作って溜め込んでいたもの放出。日付も同様
 あ、副題の訳は血の粛清です。
2010/06/29 Faceless@MementMori