オーラー・エト・ラボーラー

 麗らかなる日常。
 それは、過労で部下が、ひとり、またひとりと脱落していくということ。
 無念と謝罪の呟きが非個性的に紡ぎ出される。流石にこれ以上の骨を拾うことは不可能に近いので、男はある誓いを立てた。

「なんとしてでも仕事をしていただく。」
 その決意と共に、彼は長い付き合いの間に培った技術で、彼の上司を机の上の書類に手練手管で縛り付けている。


「…うぅ…文字に酔った…」
「……。」
「…少しは上司を労わる気持ちはないのか、書類の内容を無言で伝えるのはやめんか!…ぐっ!」
「興奮するとお体に障ります。意志を汲んで医師を呼ばすにいる部下を褒めて下さい。…あなたならば、すぐに体調を戻して、その決済を済ませられるものばかりです。」
 尊敬する上司は重厚な書類机で、げんなりした顔をしていた。右手に整理された、革張りのバインダーに収められた重要書類が10冊ほど。右手には、雑多な書類が小山を作っている。
「まったく…息が詰まる。」
「では、医師を呼びましょうか?」
「意地が悪いぞ。」
 肩で切りそろえられた髪を、吐息で揺らして上司殿は天井を仰ぎ見た。
 ともすれば、痩身の年下の上司では、この重厚な机に迫力負けしてしまうが、机には職人の手彫りの彫刻が施してあり、華やかな雰囲気で、どこまでも相応しい。

 青年は建築技術というものは、それほど造詣しているわけではない。しかし、高く天井を組むことは六借しいことだということは識っている。

 漆喰で塗り固め、彩を施したこの部屋の維持費はそれなりにかかっている。
 教会や、城の謁見室のように権威を示す場所でもないが、この執務室の天井が高く組まれているのは、領主たる夢魔様の趣向……といえば聞こえは良いが、仕事をするために必要だと仰られたので、そのように部屋を用意したのである。
「天井が低い狭い部屋なぞ、息がつまるじゃないか!」
 蒼白な顔でそう言われたら、塔勤務の者全員で叶えずには居られないのだ。

		



 この執務室に居る青年は二人。共に黒を基調とした衣服に身を包んでいる。

 一人は主たるナイトメア=ゴッドシャルク。夢魔というこの世界の有力者……役持ちの一人で、クローバーの塔の領主。
 特徴は高貴な身分と潤沢な資産の象徴である、フリルの付いたシャツと、刺繍を施したジャケットに身を包んで、役持ちのルールに従い、右目をこの世界の秘密と共に、やや無骨な眼帯で覆い隠している。
 ともすれば、華奢な身体を更に華奢に見せる服装ではあるが、併せたフリルのシャツがそれらを品良く包み隠してくれる。

 もう一人はグレイ=リングマーク。蜥蜴という同じく役持ちであり、ナイトメアの部下として実務頂点を司っている。上司の健康管理も彼の仕事の内である。
 彼の溜息と同じ位、重暗い色の上着に身を包み、きっちりとネクタイを締め上げている。
 元ではあるが、暗殺者にあるまじく、煙草を嗜好しているので、どうしてもその臭いが染み付いてしまっている。暗殺者としてそれは顧客が不審を示すものであるので、やはり今の役が性に合っているのかもしれない。
 それでも武器を携帯せずには居られないのは、武装はこの世界の常識であると共に、それに興奮を覚えてしまった人間であるということだ。


「ナイトメア様・・・」
 不自然な身じろぎ一つ、今日は見逃しませんよ?

 暗殺稼業で培った感情抑制の能力がこのようなかたちで活かされるとは、グレイはそのように自らの因業を愁えるような軟な男ではない。しかし、部下が過労で脱落していく様は見るに忍びない。

 上司たる、ナイトメア=ゴッドシャルク様は、患える上司であり憂える上司でもある。主従は三世というが、素晴らしい能力と愛嬌の溢れる方で心底お仕えできることを誇りに思っている。
 それは、語弊を恐れずに言えば、このクローバーの塔で働く者の総意であるとグレイ=リングマークは思うところである。

			



「……。」
 そんなグレイの内意に根負けして、今日は咳き込みながら、書類にサインをしてくれている。……少々お可哀想である。後で褒めて差し上げよう。背を擦って差し上げたくてもそこはぐっと我慢である。ここで甘い顔を見せたら負けなのだ。
 それにしても、元暗殺者たる私と根競べしようと思われる、この方の挑戦する気概は素晴らしい。気取られない程度には感心している。


 ナイトメアは一枚サインをする都度、百面相のように表情が変える。

「仕事など面倒だ。」
「私は偉いのに、何故このような仕事をせねばならない。」
「そもそも私の役は夢魔でもある。」
「よって夢の世界に……。」

 眉間に皺を寄せたり、胸を張ってみたり、主張すべきことに憮然とした表情をしたり、企みに目を爛々とさせたり。悲哀に満ちた表情でずっと恨み言を途切れなく口になさる。

 ……要するに、仕事を放棄なさりたいらしい。他人の心をお読みになることができるのに、ご自分の表情が他人に読まれていることにはイマイチお気づきになっていらっしゃらない。

 グレイは溜息を一つ零して、表情を変えなければ白皙の美青年である上司にひとこと言上した。

「逃がしませんよ。決済がここから、ここまで終わるまでは、何としてでも。」
 手で仕事の幅を笑顔で示す。
 ……即ち、却下。断固たる意志。
 さっと顔面を蒼白にする上司は、一つだけ、この世に開けた瞳でなんとも恨めし気に部下の顔を眺めた。

「……私は偉いんだ。」
「そうですね。だから、最終決定の意思表示たるサインは最高責任者であるあなたのものが必要なんです。」
 最高責任者の言葉に、ナイトメア様は顔を綻ばせる。そんじょそこらの淑女では並び立てないほど、日に当たっていない、月明かりのような仄かに蒼白く浮かび上がる滑らかな肌をしている。
		



「そうか、私にしかできないことか。」
 この問答は、書類十枚サインする都度、同じことが繰り返されている。
 決してこの上司に心を読まれてはいけない。表情は丁寧に、そして嘘でないことだけオープンにする。

 心安く上司に仕事をしてもらうための、経験則から生まれた鉄則である。
 ……以前は五枚毎だったので、比較的仕事熱心になられた。グレイとしては上司の成長を心温まる気持ちになる。

 執務室の下位に机を並べて、グレイも仕事をしている。監視の為に、ふと窓に張った大きな硝子に映る上司の横顔を見る。
 ……あの時と余り変化がない。感傷にも似た懐かしい思いが、第一印象として「きつい目の色をした」と覚えられるその目元を緩ませた。


「どうした、グレイ?」
 上司殿は爛々と仕事を中断する口実を練っている。
「いいえ、ナイトメア様。いつもながら、見事な決済です。この調子なら……」
「そ、そうか。私は偉いからな。」
 空咳をして、仕事がこれ以上増えてはかなわぬとばかりに、グレイの言葉を遮って、いつも以上に熱心に書類決済を継続しはじめた。

 そっとグレイは嘆息し、自身も脇の机で書き物を始める。
 内容は、緊急の建築物の修繕許可要請に対するもの。崩落の危険性を考えると、それほど時間をかけられない。通常ならば、部下で処理が終わり、重要度によりグレイの決済で終わってしまうような内容だ。
 それから、ちょっとした嘆願書。

「……。」
 グレイの手が少しぎごちなくなったのは、ナイトメアにも気付かれた。話すよりもと思考をオープンにすると、夢魔の極髄たる表情で口の端を上げた。

「保全してやれ。全面的に嘆願内容も聴いてやればいい。」
「……はい。」
 流石はナイトメア様。……我が君。
 短い返事と共に、グレイはその書類作成を始めた。

		



 グレイがナイトメアを主人と仰いでから、どのくらいの時間帯が過ぎたか。
 お互いに風貌が無理にでもなく変わる程度には短くない時間帯横たわっているはずだ。

 この世界は、支配される役無しの国民同士でも、ある程度ならば能力の秀でた者には察しが付く。ただ、自分の命への興味と同程度に、他者への興味が希薄な者が多数派であるが。
 勿論、少数派も存在し、彼らは貧民街に多い。役持ちは貧民街からでも排出されることもある。要は実力の問題だ。

 いつの世も、貧民街は繁華街からそう遠くない場所にある。何かを決定的に隔てる境界線のような裏路地の貧民街のは一つの家族のようなところでもある。グレイの出自もそこにあった。

 奇跡的にマフィアの支配から逃れ、自治を維持できたのは、暗殺業に特化したスラムだったからだ。これが、唯の汚れ仕事ならば、とっくに帽子屋ファミリーに搾取されるだけの場所だっただろうと、今ならば分かる。
 あのスラムは最低限の教育と食事を受ける権利を与えられた。読み、書き、算術は暗殺業に向かない者にも与えられ、代償を要求されない代わりに、早く仕事を見つけることを要求され、見つけ次第全てに口を噤むことを条件に追い出される。
 情報が漏洩することは皆無に等しい。問題があるようならば、粛清が待っているだけだ。それらもきちんと最低限の教育に含まれている。

 グレイはそこで、幼少期を過ごした。野心が大きく膨らんだのはそんな事情もあるのだが、スラムと互いの為に口を噤んでいる。

 現、夢魔であるナイトメア様だけが、例外で知っている。
 ……一番野心が大きかった時期からの既知故だ。

 書類を作成しながら、自然に記憶の糸を手繰ってしまう。
 その記憶は煤臭さと、喧騒。安酒の匂いと共に蘇る。

		



「夢魔の役が変わった。」
「噂ではまだ、ほんの子供らしいぞ。」
「オレの聴いた話では、赤子だとか!」
「そんなワケあるか!」
「なんだぁ!オレが嘘ついているとでも?」

 夜の時間帯、酒場の入り口で物乞いに扮したグレイは、いつもの様子とは少し違う、大人たちの興奮から標的を見失わないように神経を集中させた。

 赤ら顔の男、酔客に肩を抱かれる浮かれ女、突き出た腹にじゃぶじゃぶと麦酒を流し込み。炙った肉の切れ端をつまみ、名残惜しげに脂でべとべとの指をしゃぶる。

 葡萄酒を頼んだ男は気取って多めにチップを渡してウェイトレスの手を握るが、慣れた調子でその手を叩かれている。
 場末の安酒場とはいえ活気に満ち溢れるのは、ここの料理人は以前、それなりの商家のお抱えの腕が確かな人間だからだ。
 よくある話で、主の金をくすね、商売道具の指を二・三本切り落とされたが、金を返すために獄に繋がれる代わりに、こうやって店を持たされ、飼い殺しにされている。
 酒の好きな人間は、料理が旨ければついつい杯を重ね、長っ尻を決め込む。家で待つ女将さん達の怒り顔と同じ位、真っ赤な顔をして陽気に語らう。
 人が集まればまた、そこに人が集まる。にわか論客、にわか詩人、どんどん人は増える。・・・その繰り返し。

 喧々囂々。……ついに酔っ払いがつかみ合いの喧嘩をはじめた。賑やかな店内は酔客が涎を流しながら囃し立てる。ついに、拳銃を天井に向かって鳴らすものまで現れる。
十時間帯に一度はこのような調子だ。

 グレイは舌打ちをした。
「……引き上げか?」
 親方にどやされる。仕事が遅いと。
 銃声に小心者達は悲鳴をあげて、倒(こ)けつ転(まろ)びつ酒場から逃げ出している。
 机が倒れ、皿がひっくり返る。あちこちで怒声と悲鳴。・・・銃声が激しくなり始めた。

		



「……まったく、夢魔が変わっただか知らないが。そんなことで、己の生活が変わる訳でもないだろうに。」
 不遜にも役無しの国民であった、グレイはそんな悪態を付かずに居られなかった。
 この前はやれ「美しき女王陛下万歳」と飲んで騒ぎ・・・要は口実なぞ何でもいいのだ。

「赤子でもなれるというのなら、俺だって役持ちになれる。大勢に傅(かしず)かれて優雅な生活だ。」
 すっと闇に身を引きながら、そんな悪態をつき、椀の投げ銭の数を数えて、その少なさに道端に唾棄する。
 殆どが混ざり物の多すぎる真っ黒なくず銅貨。小遣いにもなりゃしない。


 天にかかった気まぐれな月は、狂ったように姿を変える。夜の時間帯が続く間、不規則に。よく月は女に譬えられるが、暗殺業を営むグレイにとって、女達は月より優しい。

「月まで俺を苛立たせる。」
 仕事になりゃしない。饐えた臭いのする、汚した麻袋を脱ぎ捨て、壁に寄りかかると、腹立たしさを鎮めるために、ポケットの中でくしゃくしゃになった安物の紙煙草に火を点けた。
 ポゥと小さな灯かりが一息吸い込むと激しく燃えた。
 それは、仕事終いの合図でもある。仕事中に吸おうものなら、三流にも数えられない。
 ギルドの親方には、さんざん煙草は止めろと言われている。暗殺者として一流でありたくば、相手に気付かれる要素は一切絶てと。

 煙草は有名屋号の偽者だ。味も最低……化粧のよれた肌理の粗い女を抱いたようだ。気持ちが重たくて、不実な自分を責めるように、じっとりと……紫煙さえ、重たく地を這うような・・・
「そんな馬鹿な。」
 自嘲の声。安煙草で声がしゃがれている。


 引っ込んだ小路の奥に目をやると仄かな灯かりが、ぽつぽつと見え、耳を澄ませば青暖簾の姐さん達の笑いさざめく声が聞こえる。
 足を向ければ、ふっと諂(へつら)った口調でポン引きが寄って来るが、グレイの顔を見ると、百年の宿敵にでも出遭ったように、その笑顔を引っ込める。

		

 進むと拓ける小路の奥、少し上等な妓楼二階の洞房から、姐さん達の甘ったるい声が白粉の香りと共に降って来る。馴染みの顔には冷たく、知らない顔には意味有り気な顔をすれば、プライドの高い売れっ娘程、ムキになって気を惹こうとして、ついには小遣いまで渡して、再度の来訪をグレイに懇願する。

 グレイのトパーズ色の瞳は昼の時間帯中心に生活する者にとっては、不気味さを抱かせるが、夜の時間帯を熟知する者には依存性のある何かがあるらしい。

 同じ白粉の匂いに飽きたら、次へ。貰った小遣いで、花を買って次の蝶に蜜を渡す。
 ……駆け引きのより難しい高級娼婦や、未亡人。遊びと割り切る貴族の女。
 素人はいけない。殺さなければいけないほどに面倒だ。
 厭きたら また、娼館で新顔を見繕う。
 女衒(ぜげん)よりはマシだが、グレイはそうやって女衒達にも置屋の主達にも嫌われていった。

「あいつは、追い出しても追い出しても……まるで、シッポを切って逃げる蜥蜴だ。」
 その呼び名が気に入って、蜥蜴の刺青を入れた。
 女達は愛おしそうにそれを指でなぞり、抱きつき喘ぐ。

 この世界ではそれは本物の役持ち「蜥蜴」が知ったら、信じられない程の拷問と、ありったけの辱めを受けさせられ一族郎党皆殺しにされてもおかしくない行為。
 しかし、当世の「蜥蜴」を知るものはない。薄氷を踏むそのスリルが、首尾良く女の閨に滑り込んだ時と同じように心地よかった。

 暗殺者として、腕を磨き、仕事が完遂されるまでの糊口を凌ぐには常に女の腕(かいな)の中に限る。
 いつも通りの生活の途中、寝物語に女の口から「夢魔について」の噺を知ることとなった。

「夢魔。ねぇ。」
 女達を争わせてかき集めた情報は概ね信憑性を疑いたくなるものばかり。
「……赤子ではないとしても、まだ坊やじゃないか。」
 嫉妬にも似た感情が湧いて来る。ちゃんと両親が揃っていれば、誰の機嫌を伺うでもなく生活の保障をされる。

「殺してみるか?」
 役持ちを殺して、暗殺者として名を上げて。……悪くない。一角の暗殺者として名を馳せることもできる。子供だからどうだと言うのだ。
 ちろちろと蛇が舌を出すように唇を湿して一計を案じた。

		



 女達に聞いた夢魔の棲む塔には呆気ない程簡単に侵入することができた。夢魔とされる男児の姿のある居室も、簡単に探しあてられた。
 あれだけの白い肌は、上等の妓楼にも居やしない。
 身分の高い者らしく、伸ばした髪を結っている。葬式でもないのに、暗い色の服を着てそれが、鋼色(スチールブルー)の髪と同色の瞳と共に彼の存在を際立たせる。
 奇妙なことといえば、片眼を包帯で巻いていることだが、ものもらいでもしたのだろうか。子供にはよくあることだろうが、手当てとしては大袈裟過ぎる。


「あっけない…罠か?」
 グレイがそう戸惑う程に。汚れた英雄にあこがれる大人びた少年達には申し訳ないが、暗殺業とは地道で、手堅くする仕事である。

 割に合わなければ、依頼を断ることもある。スラムのギルドに所属する以上、能力により仕事は割り当てられる。ギルドマスターは所属する人間の力量を見極め、ギリギリの仕事を割り当てる。…あの妖怪め。グレイは舌打ちをする。


 概観とは違い、堅牢なハートの城、帽子屋ファミリーの首領屋敷この国の有力者は、その権威と同じ位厚い守りの向こうに鎮座する。
少し前に、希代の若年の女王が即位したハートの城は益々その守りを固めた。帽子屋ファミリーも当世の首領もそれなりの年齢だ。跡目争いは程無くして勃発するだろう。

 そんな世相に、ここまで無防備な夢魔の居城は疑り深い暗殺者としては、素直に受け止められるものではない。
「しばらく様子を見るか……」
 我知らず相手が「役持ち」であることに緊張をしていた。

		



「……わたしは……えらい……?」
 疑問系なのは、読唇術をしているから。
 どうも、良く分からない。女達の言うとおり、子供だ。物事を悟っているということだったが、ただ家庭教師達に我儘を言ったかと思うと、宥められて勉学に励んでみたり、体調を崩してみたり……
 ずっと観察をしているが、常に彼の周囲は賑やかだ。

 唯一変わらぬことと言えば、右の瞳を真っ白な包帯で巻かれ、常に赤ん坊のようにむずかっているということ。
 騒いだかと思うと、薄い皮膚の眉間には、不愉快そうな皺が寄せられ、何かあらぬ所を見つめていたりする。その顔だけは酷く大人びていて、グレイは苛立つ。

「……なるほど、女達が騒ぐとおり、綺麗な出で立ちだが、あれはただの子供だろう。」 グレイは満足できるまで、観察を続けたが、見れば見るほどそう確信していった。そこに一縷の願望が混じっていたことは、後になって自嘲したものであるが。


「殺ってみるか。」
 何度かそこに通ってから、幾度目かの夜の時間帯が来た。広大な敷地、わずかに庭草を揺らす風、動物の息遣い、大きな果樹と花樹木のざわめき・・・気配は消すより、そういったものに紛れさせるのが、グレイの得意。


 夢魔が寛ぐ部屋は、先ほど侍従殿が追い出されていた。…仕事は手早く。しかし主張をするため、自分の得意のナイフで一閃…。何度もイメージをする。

 豪奢な屋敷に所々ある、防犯の意味も兼ねた、飾り鏡に時折彼の琥珀色の瞳を移した。爬虫類めいているとは誰に言われたのだったろう?


 部屋に滑り込んだ途端、男児から声がかかった。
「……お前、この前からずっと私を視ていたやつだな。」
 気付かれていないという確信すら抱いていたのに。
 冷や水を浴びせられた気持ちだった。
 一気に襲い掛かるつもりが、思わず部屋の影に身を潜めてしまった。
 月明かりの弱くなったところを選んだのに。……焦ってはいけない、即時の見極めが肝心だ。



「こら、返事位しろ。わざわざ私から声をかけてやったのだ、光栄に思え。」
 ……失敗だ。撤収せねば。
「こら、私のいうことを無視するんじゃない。」

 グレイは即座に部屋を後にした。窓を割って逃げなかったのは、まだ夢魔の男児の暗殺を諦めては居なかったから。

「ナイトメア様!賊ですか!?」
 かすかにそんな声を拾った。

 爬虫類が滑りおちるように、塔から逃げ出し寝座(ねぐら)へ戻った。
 安い紙煙草の匂いが染み付いた、脂(やに)で黄色い余り戻らない部屋で、深く眠りに入るでもなく、ナイフを投げて、夜の時間帯をやり過ごし、ようやくやってきた昼の時間帯に安堵をして、うつらうつらと眠りに付いた。

		



「……やっと眠ったな。」
 グレイが夢で怯えたのはこれが初めてだった。
 明るいとも暗いとも言えない、法則の無い空間。とっさに顔を隠し、暗器を取り出そうとする。
 手に馴染んだ、ナイフの感触が少し気持ちを落ち着ける。

「夢で夢魔を殺すか?」
 男児はグレイを嘲る。やってみたまえよ。役無しの国民。胸を反らして高みから笑う
「……。」
 貴重なナイフ二本のうちの一本を本気で投擲した。夢ならば、仕方あるまい。

「わっ!貴様、夢魔たる私を本気で殺そうとしたな!」
 ……当たり前だ!そう叫びたいような、気分であったが、暗殺者が気分を荒げるなんて三流もいいところだ。素早く呼吸を整えて、状況を把握する。

「貴様!可憐な美少年たる夢魔の私に、頭を垂れず、暗殺未遂の非礼も詫びず!しかも私はもう子供ではない!お前はさんざん私のことを子供だとか、子供だとか、子供だとか!それ以外に思うところは無いのか!」
 自分で美少年と言う神経は中々のものだ。まあ、その通り美しい顔なのであるが、いかんせん、その大きく巻かれた包帯が痛々しい。

「……ふん。暗殺者ごときに、気遣われてしまった。だから、包帯なぞ嫌なんだ……病院の気配がするではないか!」
 こいつ、心が読めるのか?
 表情には出していなかったはずなのだが、そう考えた瞬間、白皙の少年には似合わないような陰惨な表情をして、少年はグレイを見下げてきた。

「ああ、読めるとも。私は夢魔である以前に、ナイトメア=ゴッドシャルクとしても偉いのだ。夢魔の中の夢魔。心を読めるこの私こそが当世の夢魔である。我が前に出られることを光栄に思え。」
「……理屈は良くわからんが、お前は役持ちの夢魔なんだな?」
 少年は紅顔をにぃと歪ませて笑った。
「そうだ。夢は私の領域。管理者の一人。私は忙しいのだ。しかし、お前が眠ったから態々お出まししてやったんだ。この私がだぞ!」
 ここは、感涙に咽ぶところだろうか?毒気を抜かれてグレイはぼんやりと思ったが、高らかに演説を続ける少年を前にして、本来の自分を取り戻した。
「……俺はお前を殺す。」
「やってみればいい。お前なぞ、私にはとるに足らぬ。せいぜい足掻け?」

 ふわふわと遠くまで浮かび当たっていた少年は、それを言うためにわざわざ、グレイがナイフを伸ばせば充分に届く範囲までおりてきた。
 挑発的な視線。
「…いい眼をしているじゃないか。」
「当然だ。夢魔だからな。お前も中々生意気だ。」
黄金色の視線と白金色の視線が、反らしたら負けだとばかりにぶつかる。

「……うっ!いかん!消毒液のにおいがする!お前とはまた今度だ!」
 唐突に、夢魔の顔が、世界が全てが歪む。
「負けではない!引き分けだからな!」
 そんな声を残して、ぐるりとグレイの視界がまわった。



 グレイの意識は吐きそうなほど歪んで、引き戻された。
「……最悪だ。」
 仕事で失敗した方がマシだ。
 飛び起きて、胃の腑からせり上がるものに、逆らえず、洗面所へ直行することになった。
 曇って欠けた鏡でさえ、充血した眼をはっきり映す。……眦に浮かんだ涙さえも。
「無様だ。」
グレイはひとりごちて、洗面台の端に拳を叩き付けた。

		



 来いと言われて、出向く暗殺者は自分くらいだと思う。最近多くなった自嘲が口許に張り付く。
 夢魔に相応しく、寝台で惰眠を貪っているだろうところを、グッサリと思い忍び込んだのに。

「…殺る前に死ぬなよ。」
 浅い呼吸…よく確かめなければ死んだかと思う程度に。丁寧に拭ってはあるが、口の端に血の泡がこびり付いている。
「…医者が痛い注射をするんだ。あの痛みで死ぬかと思った。まったく皆して私を殺す気か…。」
 噎せながら悪態をつく。いや、助けたいから医者を呼んだんだろうとグレイは呆れて思ったが、死の床かと思える程の土気色の顔色の相手に反論する気は萎える。

「…どうした、殺らないのか?」
 手負いだからなんて美学を持つ職業ではあるまい。そうやって、咳をすることさえ、痛そうに顔を顰める相手に逆に言われてしまった。

「ならば、祈れ。」
 何に?心の呟きを見咎めるような視線を、包帯に覆われていない左目から向ける。
 鋼色の虹彩は力ない瞼に半分隠される。

「私にだ。」
 喉の奥から、ひゅーひゅーと音を鳴らしながらも、応える。
「…お前も心を読めたらいいのに『蜥蜴』。何故私ばかりが喋らねばならんのだ…不公平だ。…ぐっ!げほげほげほ」
 天蓋の付いた大きすぎる寝台の上でシーツに埋もれるように丸まってその咳に耐える。役持ちに揶揄されてグレイは居心地が悪い。眉を顰めてそれに耐える。
「…俺は本物の『蜥蜴』ではない。そんな芸当持ち合わせていない。」

「本物であるか偽者であるかなんて、私にはどうでもいい。お前が蜥蜴だ。偉い私が決めたんだ。」
 …何を言っているんだ?死の床で戯言か?
「とことん、無礼な奴だな。ちなみに死の床ではない。五十時間帯前も同じようにちょっと体調が良くなかった。」
 これが、ちょっと?
「…お前、私が思考を読めるからって、ちゃんと喋れ。ずるいじゃないか。」
「思考が読める方がずるいと思うんだがな。」
 ふん。と、さもくだらないことを聞いたかのように浅い呼吸の中でもナイトメアはグレイを卑下した。
「赤子の頃から、ずっと頭に傾れ込んでくるんだぞ。私の年齢まで生きられたことは奇跡だ。」
「…ああ、心も身体も蝕まれそうだな。」
「ふん。そんな脆弱な理由なものか、快く思わない大人が子等に手をかけることの方が多い。」
 想像していなかった理由だが、まあ、有り得ることだ。
「…生憎俺は親が居ない。」
 グレイが感情を押し殺して、事実を伝えた。
「私はそんなことに興味なぞない。・・・おい、呼び鈴を鳴らせ。」
「俺はお前を殺しに来たんだが。」
 何を言っているんだ。本当に訳が分からない。そう思い、少年を見ると、寝台から起き上がって、口許を抑えている。
「…吐く。」
「ちょ!待て!」
「無理。」
 グレイは呼び鈴を鳴らし、扉を開けて、必死で助けを求めた。
 素早く医師と女中が部屋に傾れ込み、暴れて抵抗するナイトメアを押さえつけ治療を施しはじめた。

 混乱に乗じて、グレイは何とか夢魔の居室から抜け出した。

		



 夢魔の言葉は、脳髄に残る。
 払拭するために、暗殺者ギルドの仕事を以前より精力的にこなし、ハートの城や、帽子屋ファミリーから追われる身になった。
 何が悪かったのか、やたら笑顔のグレイよりは年下らしい、騎士と対峙する機会も幾度となくあった。
 正当に教えられた剣ならば、剣筋を読むのは大して苦にはならないことが、経験上導き出された答えだが、圧倒的な武力というのは個人にも備わっているものらしい。
 蜥蜴の刺青を目の仇にされ、グレイは辟易とする程度には何度か刃を交わした。

 また、気まぐれに現れる夢魔と夢で対峙し、腹が立って暗殺を何度目か忘れる程度に仕掛け、通常の警備に撃退されたり、吐血されたり、状況が悪かったり。…そんな失敗が続いた。
 ほぼ、ゲームとなりつつあった。格の違うもの同士のゲームなぞ一方的な勝負になると決まっているのだが、グレイのゲームの御多聞に漏れず、劣勢だった。


 暗殺に来たんだか、既知の間柄の定期的な挨拶なんだか、訳がわからなくなっていた。 終いには暗殺者に髪を切ってくれなどと、呆れたことを、夢魔は言い出した。女中に頼んでも、格式としては髪は伸ばすものだと断られてしまうのだと言う。
 寝室に併設のドレッシングルームに椅子を持ち込んで、グレイに強引に髪を切るように言った。

「俺は、お前の命を狙う暗殺者なんだが…」
「だから、刃物くらい持っているだろう?まさか鈍らか?髪も切れないくらい扱いが下手なのか?」
 そう言われて、反骨せずには居られないほど、グレイは枯れてはいなかった。

 さくり、さくりと希望通り、肩のあたりで切りそろえてゆく。
「やはり、短い髪がいい。洒落ている。」
 グレイ自身、長い髪は仕事の邪魔なので、適当に切りそろえている。流石に仕事の道具で髪を切ったりすることは殆ど無いが、切れ味を確かめるのに、一房ということは、ままある。
「頭が重いのはいけない。」
「・・・おい。包帯は取っていいのか?」
 返事の代わりにナイトメアが自分で包帯を取った。
 隠された片眼には傷ひとつない代わりに、瞳が閉じられていた。

		



「割とお前は下世話だな。…ただのルールだ。この瞳に傷なぞない。」
 少年にちろりと見られて、グレイは少し羞恥した。
 そうだった、この少年は思考を読むのだ。
「お前は下世話だ。名誉欲、嫉妬、色欲・・・ありとあらゆるものを持った強欲だ。…なのに何故『蜥蜴』を望まない?」
「・・・『蜥蜴』では一つの世界しか操れないからな。『夢魔』ならば、夢の世界でも支配者だ。」
「ははは!…っ!」
 小さく噎せている。それまた華奢な身体で。
「動くな。身体に障るだろう。それに、刃物を扱っているんだ。」
「お前は私を暗殺しに来ているんだろうが。」
「そのお前が末期の頼みに髪を切ってくれというから、叶えてやっているんじゃないか。」
 まったく、口が減らない…流石にむすっとした表情で、夢魔はおとなしく椅子に納まった。
「『蜥蜴』だからって、全く夢に干渉できないわけでもない。寝首を掻くつもりくらいで『蜥蜴』として、私の部下になれ。」
「…俺には、学がない。」
 この少年は『クローバーの塔』の領主だ。
「安心しろ。私だって、いたいけな子供の頃から働かされていたのだ。そのうち嫌でも私のように高尚な役持ちになれる。お前は『蜥蜴』で私の部下だ。請けるな?」
「…。」
 グレイは、細い髪が挟まってしまった小刀を分解していた。ふと思い立ち、その鍔を外し、ドレッシングルームに備えてあった、細い黒のリボンタイを通し、眼帯を作った。
 怪訝な顔をするナイトメアにそれを着けてやる。
「包帯は嫌なんだろう?」
「『包帯は嫌なんでしょう?』だ、部下らしい言葉も覚えろ。」
 眼帯を気に入ったらしい少年が、晴れやかな笑顔をグレイに向けた。
「仕事は沢山あるからな。働いて貰うぞ!」
 肩で切りそろえた髪を軽やかに纏わせ、ここに新たなる主従と新たなる役持ちが発生した。

		

END (or to be continued?)

web拍手レス

■あとがきなのか、よくわからないもの
クローバーの塔の主従話。
膨らみそうなのを押さえて押さえて、はしょってはしょって。
メア様を愛でたいので、グレイの視点を使ってみたり。あんまり悲惨にはならないように。さらっと。
そうするとグレイも書き込まなくちゃいけなかったり。もっとメアメアしたかったのに。

包帯メア様とか
メア様の髪を切るのはグレイの役とか、眼帯説の捏造とか。
うん。勢いだけはあると思います。
ちゃんとエースも出したし。満足。(え

これは、素敵サイト様RAG/山本様にオマージュしたメア様の話です。
お誕生日おめでとうございます。素敵な一年になりますように。

[26/10/2009] Faceless.