花に与えられた居室。
孟徳は丞相位にあるものとして、他事多忙であるらしい。
月が中天にあっても、沖天の勢いで、彼に人も仕事も集まる。
しかし、孟徳は上手に寸暇を惜しんで、花の許を訪ねる。
顔を見られるのは、きっと互いに嬉しいことだが、それで創(きず)が早く塞がるわけではないのであるが。
孟徳が訪ねられない日は、花を届ける。
咲き初めであることを理由に、小さな菓子を共に。
養生するように。…苦い薬も忘れずに添えて。
また孟徳は、たまに女官に言付けもさせる。概ね「夕刻過ぎになるかもしれないけれど、必ず顔を出すから、軽くお茶を一緒に」といったようなものだ。
律儀なことに、「返事はこの使いの女官に伝えて」と言い添えてある。
毎度のことながら、女官は回答を貰えないと戻ることを赦されない…がそれは彼女の与り知るところではない。
断ることなんか、しないのに。
花はちょっとだけ笑って「必ず」と女官に伝える。
それだけ訊ければ充分と、しゅるりと慣れた裳裁きで、様子で女官が部屋を辞しようとした。
「…あ、待って下さい」
「何かご不自由でも?何なりと仰って下さい。あなた様にご不自由をおかけしてしまうと、私達が丞相に叱られてしまいます」
女官の涼しげな切れ長が、少し年下の少女をからかうように優しいく弧を描く。
「…えっと…あー…『花瓶が足りなくなっちゃいます』と伝えて下さい」
「…承知致しました。では…」
扉が閉められて、気配が遠ざかるのを寝台の中、耳で追う。
「…流石に、会いたい、です。って伝えて貰うのは…きゃー…ぃったー…」
寝台でちょっと身動きするだけで、傷が引き攣れてしまう。
たった、二日。
顔を見ていないだけなのに。
「…ぅー…」
寝台の掛け布を口許まで引っ張り上げて、こみ上げる恥ずかしさに花は耐えた。
視界には薄絹と錦の天蓋。
備え付けの厨子棚、卓、置けるところには全て大小の花瓶が色とりどりに。
「また、金木犀の季節には…」
そんなことを思いながら、花はうつらうつらと眠りについた。
高く扉を叩く音で、花は薄く目を開けた。
手際の良い女官達が、油を注してくれたのだろう。燭台がゆらめく灯りを放っている。
ふわっと寝汗が滲むが、傷が塞がるにつれ、少しずつそれも少なくなってきた。
「…花ちゃん?」
遠慮がちに、声を落として、それでも部屋に入ってくる声に、花は口許が緩んでしまった。
「はい」
「ごめん、起こしちゃった?」
この人は、言う程悪いなんて思っていない。
「いいえ、はい。起きてますよ」
ニコリ。口調は優しく、
「じゃあ、お茶をしよう。…約束より、ちょっと遅くなっちゃったけど、いいかな?」
「はい。…それより、それ…」
「ああ!これ。今度から花瓶も一緒に贈ることにするよ」
「孟徳さん…」
「本気なんだけど…君の望みは違ったみたいだね……男は好きな子になら、少しくらい浪費したいものなんだけれど」
「お花は嬉しいです」
けど。
だけれども。
一緒に居る時間の方が何倍も嬉しい。
「ここにも携帯とか、メールとかあったらいいのに」
孟徳の笑顔にぽつりと甘えた言葉が出てしまった。
あわてて、口許を押さえる、ちろりと花は孟徳を見遣る。
燭台の灯かりでは、よく確認できないが、きっと少しだけ、困ったような顔をしている。
「あ、ち、違うんです!携帯とかメールって、その…すぐに届く手紙みたいなものなんです!写メとか…その、絵も一緒に送れたりするんです」
「使いをやるのとは違うの?」
「うーん…?人を介さないから、気軽にお喋りできるような、そんなお手紙なんです」
「…密書…君となら、秘密の手紙って感じかな?いいね、それ」
孟徳が笑顔になったから、花も嬉しい。
「………」
花は考えた、ルール違反になってしまうかもしれないけれど。
「あの。今から二人だけの秘密の遊び、しませんか?」
「…大胆なお誘い?でもそれは君の傷が治ってからと思っていたんだけれども…」
「…?」
口許を押さえて、ごにょごにょと孟徳が呟く。
「…分かった。君には嘘はつかない。だから…」
「本当ですか!やったぁ!…ぁぃ…っ・・・」
花はつい、動作が大きくなって、顔を顰めた。
「花ちゃん…大丈夫?」
「大丈夫、です。じゃ、まず、このお茶飲んじゃいましょう!折角用意していただいたんですし。この杯を拭いて、あと、糸を使うんですよー」
「…え?糸を使う???」
童心と相反する心に満ち溢れた大人が混乱した声を上げた。
「できた」
「これが、糸電話?」
「そうですよー糸がぴんと張られていれば、ちょっと遠くても声が届くんです。孟徳さん杯を耳にあててみて下さい」
孟徳は素直にその言葉に従う。
花がなんだか楽しそうだからだ。
「私の声が、聞こえていますか?」
「…おー…本当だ…椀の中から内緒話が…」
「今度は孟徳さんが話して下さい」
「え、俺?」
「糸電話でですよー」
「あ、そっか。ははは。じゃ、部屋の端から話してみよう」
「はい」
目を閉じて、花は耳に当てた椀から、聞こえてくる声をうずうずと待つ。
孟徳はそんな愛おしい仕種を見せる娘を、目を細めて見つめ、口許に椀を当てる
「…花ちゃん。聴こえている?聞こえていたら、こっち見て笑って」
少女が孟徳に、極上の笑みを見せる。
そんな顔をされてしまったら、
その無垢さが罪なのだ。
「…君の近くに、君の隣に行きたい。俺は女の子には優しいけれど、君にはもっと優しくしたい」
少女が暗がりでも分かる程、瞠目する。
孟徳はニッと微笑んで。この糸伝いに思いを垂らす。
「…花ちゃん。聴こえている?聞こえていたら、こっち見て笑って。そして、さっきの答えも教えて」
END
珍しく、腐ったほど甘いのを一本!
「君の話が好きだよ。何でも聴かせて」
放置していたもの、とりあえず掲載日
Faceless@MementMori 28/06/2010