本編

 中立地帯、時計塔領土に、知る人ぞ知るハーブ専門店がある。

 シングルハーブ、ブレンドハーブに始まり
 ハーブコーディアル、アルコール等加工食品の品揃えが豊富だ。
 癒しの香りのコスメに、ソープなぞも扱う。

 ハートの城のゲストルームには、王室御用達や献上品の素晴らしいアメニティが並ぶ。
 負けず劣らず、帽子屋屋敷も。少し男性的な香りで揃えている。
 意外なことに遊園地のアメニティもファンシーではあるが、質はとてもよろしい。
 …時計塔は不明。あの頑固な主が、客をもてなすことを考えているとは思えないけれど。

「こんなことならば、ちゃんと姉さんに教えて貰っておくんだった…」
 ちょっとした不調なら、姉がハーブティーを淹れてくれたものだ。
 母直伝のハーブレシピだと言っていた。
 医師に往診してもらうの手配をするのは億劫だが…
「処方薬の方が合理的。でも、そこまでじゃないのよね。」
 後悔すれども、遅い。そういう訳で、店の常連になりつつある。
「本も安くはないけれど、ハーブもそうね」
 でも悪くない。対価を支払う価値がある。
 時間帯が不規則なこの世界だろうと、体調を整えることができないと思われるのは、アリスにとって、とても嫌なことだった。

 ハートの城か、帽子屋屋敷のメイドに頼めば分けてもらえるかもしれない。
 帽子屋屋敷はブラッドに知られると、何を要求されるか分からない。
 ハートの城ならば、純粋に心配してくれる。
 しかし、万が一ビバルティやペーターに知られたら、大袈裟になることは予想に難くない。
 ………冗談じゃなく、最悪死人が出るのだ。
 中立地帯の評判の良い店での買い物これが、一番堅実な選択だとアリスは思っている。


「いい香り……」
 製油のコーナーの一番目を惹き付けられるところに商品見本がひとつ置いてあった。
 左様でございましょうとも。
 いつだったか、姉に連れて行って貰った街の専門店なら、店員がそう声をかけてきたのだが。

「あれ?アリス」
 穏やかな店員の声とは、まるで違う、よく通る声が耳に飛び込んで来た。
 こんな所で遭遇する既知の人物なんて………
 落ち着いたオークの内装に、眼にも鮮やか過ぎる真紅の騎士装束。
「どうしたの、……鬼の霍乱?」
「誰が鬼だ!誰が!」
「さあ、誰だろうね?俺は知らない」
 頭痛を起こすようなことを、澄んだ青空に若葉の柔らかい芽の香りと錯覚する爽やかさで放し続ける。
 吸い込んだほうが愚者だと云わんばかりに、その毒素のある香気を振りまくのだ。
 正面から相手をしたら、負けだ。ビバルディのようにたまには避わすことも必要だ。
 ぐっとアリスは言いたい事を飲み込んだ。
「………エース、時計塔に用事?」
 つとめて、にこやかに。
「いや。終わって旅に出たところ。これで同伴者もできたし、楽しい冒険になりそうだ」
「…勝手に決めないで」
 人の話なんて全然聞いてない。軽々とアリスの手から荷を取る。
「重そうだから」
 ニコリ。
 額面どおり、素直にその微笑を受け止められたら、素直な可愛い女の子なのだろう。
 アリスはぐっと拳を握り、表情を引き締めた。
 エースが持ってくれた、荷物の中身が頭を巡る。
 数冊の本、瓶詰めのコーディアル、オリジナルブレンドのハーブティーなど。
 …決して軽くはないはずだ。本音としては、大変有り難い。
 いや、しかし…頭の中で天秤がアームが壊れそうな勢いでカンコン振れる。
 そんなアリスにお構いなしに、彼はさっさと歩き出した。
 …いつもそれが大問題なのだ。
「エース。そこは従業員専用出口だと思うわ」
 高級店という訳ではないが、流石にその扉から外に出る気にはなれない。
 この店はハーブティー専門のティーサロンの内部にある。
 よくある、入り口は階級別に分かれて、上流階級専用スペースがちょっと仕切られている伝統的な様式の店舗だ。
「えー…こっちが近道だと思うんだけれど」
「いいえ、貴方はこちらの上流階級用、私は中流階級用の出入り口。それぞれを使うべきよ」
 これが、冒険に付き合うことに同意を表したアリスの返事。
 しかし、エースはアリスのことも荷物のように、ひょいと小脇に抱えた。
「なっ!」
「暴れると危ないよ。逸れる危険があるから一緒の扉から出よう」
「逸れるわけないでしょう!」
 はははと笑いながら、エースは出口に向かう。
 よくできた従業員は無言で、上流階級用の扉を開けて、二人を送り出した。
「………信じられない」
 誰より信じられないのは、こんな屈辱的な扱いを許してしまう、自分だ。
 放浪生活のくせに、常に高潔な格式高いグレーの手袋。
 彼に抗うフリをして、そっと触れた。


 次の仕事を入れた時間帯まで、まだ、かなりの余裕がある。
 それまでに到着できなかったら、私が連れてゆけばいい。
 アリスの読みは現実的であると思う。
 しかし、エースに降りかかる災難はいつも計算がオーバーフローする。

 時計塔とハートの城の間の森…もうどうでもいい。多分、そこに居るんだと思う。
 当然、迷ったのだ。昼の時間帯が長く続いている。
 流石に疲れて、休憩をエースに申し入れたのだ。

「…ねえ、私、昼間の狼って動物園以外で初めて見たわ」
「そう、君って珍しいね。囲まれたことぐらいあるだろう?」
「ないわ。その後、貴方が転ばなかったら、トラップに捕獲されたかもしれないわね」
「ひどいな。そんな食卓にのぼる間抜けなウサギみたいにはならないよ」
 …あの罠はペーターのやり方ではないような。
 そんなことが脳裏を過ぎるが、口にするほど愚かではない。

「ヒットアンドアウェイな刺客ってうっとうしいよな」
「そうね、貴方なら多分、止めを刺すでしょうね」
 エースは、武人らしくよく張る声で笑う。
 ふっとアリスは顔を背けた。その鼻先をナイフが飛ぶ。
 鈍く生木に、重いものが突き刺さる音。
 尻尾のようなものが大きく揺れてアリスの顔にぺちりと当った。
 滑りのある、少し冷たい嫌な感触。
 とっさにアリスはそちらを目視して確認してしまった。
 声にならない悲鳴。
 反射的に立ち上がったが、ナイフにこじ開けられた蛇の頤と、ぶらんぶらんと木の幹の間で揺れる蛇の体が眼に焼きつく。
 ずっと後ずさり、忘れていた呼吸を取り戻す。
 顔を背け、距離を取る。当然だが、エースとの距離は短くなる。
「嬉しいな。君からそんなに俺に近づいてくれるなんて」
 そんな彼女の顔に艶のある吐息がかかる。至近距離をエースの顔が掠めた。
 抗議の声をあげる余裕がある程、アリスは豪胆ではない。
「蛇…」
「そうだね。あれはウサギじゃない。蛇だ」
「蛇!」
「分かってるよ。猫でもない」
「蛇!!」
「君は、可愛い」
「!!!」
 こんな所で、愛を語られても。
 とりあえず、冷静になってアレから目を逸らす。
「何で、俺の後ろに隠れるのさ」
「……気分の問題」
 ふとエースの気配が動く。とっさにエースのコートを掴んだ。
 慌てて放すが、エースの爽やかにしか見えない微笑みが企みを食んだものにしか見えない。
 ああ、しまった。蛇よりマズいのはこっちだったのに。
 憤死してしまいたい。
「アリス」
「…ねぇ!」
 シリアスが耐えられない。
「えーっと…っ…そう!アレをどこかにやってくれない?」
 エースが一歩近づく。アリスは反射的に半身をかわそうとしたが、、恐怖のアレを思うとできない。
 紅い衣装の騎士さまは、姿容は高原の涼風のように、しかし中身は…

 前門の虎後門の狼。…ビバルディがそんな諺があると教えてくれた。

 じっと潤みのある清潔な瞳で見つめられると、気持ちが揺らぐ。
 清潔なのは見かけだけだ。自分に言い聞かせないと忘れそうになる。

「………いいよ。体を難くする君も可愛いけど、俺は騎士だしね」
 ほっとするような、残念なような。
「…あのナイフ。双子君達のなんだ。返そうと思ってたんだけど」
「また、迷子になったのね」
「時計塔市街で君に会う前にね」
 彼らの武器が一つ失われたとしても、一つ失われる命が減ったとも云えない。
 あの無邪気そうに装った顔で、素手でだって派手に殺しまわるのだろう。
「…疑問があるの。どうして、エースは遊園地には迷い込まないの?」
「あ。時間帯が変わるぜ。今夜はここでキャンプだな」
 アリスは時々感じる。エースは何と言うか…圧倒的に強い。
「…蛇の傍なんて嫌よ。ナイフは諦めて、さっきあった、あなたの以前のキャンプの跡のところにしましょう!」
 照れ隠しの為に、わざとエースのコートの裾を掴んで歩き出した。
 服を掴むことになんて、何の意味もないのよ。
 そんなジェスチャーは通じただろうか。
 エースはそんな状態ながら器用に荷物を拾い上げてついてきた。
「…アリスは勇気があるなぁ。蛇が他にも潜んでいるかもしれないのに」
「っひ!」
 どこから声出して。そうエースが笑う。
「うーん。でも居ないね。あの毒蛇はこの国に自生しているものじゃないから不思議だよなっ」
 アリスはもう何も言う気になれなかった。


 きっと従軍経験者も真っ青なほどに、てきぱきとテントを張ってひと心地。
 エースに軍曹クラスより上手だよと、揶揄されつつ無言でてきぱきと張った。

「…エース。カップってあるかしら」
「あるよ」
「じゃあ、ティーサーバーかストレーナー…」
「両方ともあるよ。保冷庫にミルクもあるよ」
「あるんだ…」
 何でもある、エースの謎のテント。

「…紅茶なら、ここにあるよ」
「違うの、今日買ったハーブティーを飲んでみようかと」
「ふぅん。ドライハーブか。生ハーブの方が俺は好きだな」
「そりゃ、生ハーブの方が美味しいけれど…」
「君もそう思う?やっぱりナマだよね。ナマ」
 …エースってば。オヤジくさいわよ。
 以前ならそう口に出して、一緒に笑えたが、なんかそんな気分じゃない。
 アリスは溜息をついた。どうにも、興奮が治まらない。
 歩き回って体は重いし、疲れているはずなのだが、心安らかに眠るという気分ではない。

「………」
 蛇の感触がまだ残っている感じがする。
 アリスはハンカチを取り出して、ごしごしと頬を拭いた。
「うう………」
 何度目かである。
「…擦り過ぎじゃないか?真っ赤だ」
 エースは片腕を伸ばして、アリスの手を静止する。

 ちゃんと洗い流したし、気分の問題なのだが、そうせずに居られない。
 エースはじっとアリスを見つめたかと思うと、おもむろにお茶を入れ始めた。
「これは…ジャーマンカモミールの香りかしら?」

 どこから出したの?なんて訊いても理解できないから、単刀直入に。
 エースはにっこりと笑って、アリスにカップを薦めた。

「ありがとう」
 気分が落ち着くんですってね。お店の人が言っていたわ。
 カップを両手で包んで、ちょっとお行儀が悪いかもしれない。
「他にも適当にブレンドしたよ」
 騎士様自らお茶を淹れてくれるなんて、余所者とは随分といいご身分だとアリスはひとりごちる。

 自分の分もと、ティーストレーナの葉を捨てて違う葉を入れた。
「そっちもいい香り。ミントくらいは私にもわかる」
 少し、安らいだ気分でそれを嗅いだ。
 カップをゆっくり空にする。香気をゆっくり吸い込むとなんだか悪くない気分だ。
 自然に目蓋に重力を感じる。

「…そろそろ寝よう」
 エースは眠気さえ爽やかに纏わせてテントにアリスを促した。
 何度目かのテントの青い空間。
 ちょっと際どいこともあったような気がするけれど。
「………ちゃんと眠いわ。私って影響されやすいのかしら」
「良かった」
 言葉とは裏腹にくすくすと軽い笑声が混じっている。

 呼吸が深くなる。エースの呼吸はマイペースだ。なんとなく連られて、落ち着きを取り戻した。
 目蓋が重くなると、擦りすぎてしまった頬がちょっとひりひりする。
「赤くなってる?」
「うん。痛そうだ」
 エースが上半身を起こし、アリスの頭を引き寄せ頬をぺろりと舐めてきた。
 犬に舐められたみたいだ。睡魔が心の敷居を低くする。
 突き飛ばすには、この暖かさは惜しい。
「………ねぇ、エース。あれはカモミールのシングルハーブなの?」
「リンデンとパッションフラワーも適当に入れた」
「効果は?」
「リラックスと安眠」
 あなたも、眠れない日があるの?
  ………愚問だ。この世界は心安らかな気持ちと縁遠い。

「君が俺のキスを穏やかな気持ちで受け入れてくれるようにってね」
「あなたの飲んでいたのは?」
「ただのスペアミント」
「………いい香りだわ」
 アリスは眠くて理性が飛んでしまったかもしれない。
 エースの胸元を握りしめ、その香気を吸い込んだ。
 今晩位は、庇護してもらってもいいだろう。何たって騎士様なのだから。
 顔も見えないし、悪くない。

「………」
 毛布の上から、彼の腕の重みが乗る。
 安心感のある重量だ。
「………起きたら、一回戦」
 そんな言葉は無視してやる。
「起きなかったら………」
 なんだが、こんな穏やかな時間にそぐわない酷く淫猥な言葉が具体的に続いたが………
 いつもとは違う、優しすぎるキスがいけないのだ。
 五つ目の軽いキスを受け入れたところで、アリスは意識を手放した。

END

web拍手レス

あとがき
■設定
・ハートの国で、ハートの城滞在中。
・女王陛下、宰相殿、双子、ユリウスと仲良し。
・テントのイベントの途中位の話。

■世界観
基礎は原作「不思議の国のアリス」当時の大英帝国の文化様式。
生活様式も同様。冷蔵庫はもう発明されておるのです。
欧州文化らしく、原作に出てこないハーブネタを

■価値観
原作の"poor Alice"を未熟な世間ズレを倫理観の違いと(ちょっと無理矢理)な解釈にして。

■エースについて
まだ、アリスをからかう余裕たっぷりな時点。

■アリスについて
敬虔なプロテスタントではないとパジャマから判断・・・
下着を飾る文化は近代文化ですし、アリスのモデルであったリデル家の次女のヌード写真の現存や、孤児のコスプレ写真の有無を考えると、敬虔とは言えない設定で・・・。
エースと一緒に居ることにより、段々カドが取れてきているところです。

以上、お粗末さまでしたm(__)m
[XX/08/2009] Faceless.

某サイト様閉鎖につき、再録しました。
名前も統一しないし、寄稿しっぱなしだったり。HAHAHA☆
このファイルタイトルは、邦訳すると「駄菓子屋」です。
[23/12/2009] Faceless.