その乗り心地は、ローラーコースターと大差ありませんでした。
存分に重力を体感すること請け合いです。
…ううう、あれです、万有引力の法則ってやつですね。ニュートン万歳。全ての事象に名前を付けずにはいられないのか、林檎でも齧っていろ。とか完全なる八つ当たりの言葉が足首の疼痛と共に脳内を駆けずりずり…
…あ、わたしはアリスですよ。
言葉遣いが改まるほどの出来事があったのです。それは、また後ほど。
状況も順を追ってご説明致します。
つぶやく内容は変わっていないと思われるでしょうが、ご容赦を。所詮わたしの呟きなので、わたししか聞いていないはずです。…多分。
さて、前述の通り、順を追いますと…
まず、件の乗り心地というのは赤い騎士様の背の話です。
乗ったときの心情と致しましては…騎士様というより、神様に見えました。
きっと、極寒故の幻覚ですね。しかし、幻覚に縋りたい時もあるのですよ。
「アナタカミサマデスカ」「ノー」
…このような、非生産的な冗談はさておき、もう動けなかったわたしは、成り行きながら、彼の背に乗ることになりました。一寸先は闇ですねぇ…
現在の気分は、ドナドナ以下です。有り体に申さばどちくしょう。
…認めたくない事実ですが、わたしは遭難したのですよ。
救助を請うのは大人として恥ずかしい限りなのですが、もうやっちまったことはしかたないのですよ。
感謝して、今度はわたしが社会に貢献するのです。
偽善スパイラルに陥らないように出来ることを少しだけする予定…
………はぁ。まいにちがどちくしょうです。
………ここでは、日時の概念が無いのでした。
訂正するならば毎時間帯がどちくしょうでしょうか。
………どうでもいいですね。下らない…
…まったく…わかりきったこととはいえ、自分の愚かさが恨めしいです。呪詛、自分自身。
書物で読んだ、砂漠で逃げ水という蜃気楼を追って遭難する旅人の気持ちが今なら分かります。
必死に生きようとした結果が残念だったか否かだということでしょう。「パトラッシュ…僕はもう疲れたよ」なんて即身仏めいた子供らしからぬ言動をできるような心境にはなれそうにもありません。ましてや、人生最後に見る絵がどんなに美しかろうと、あんな怖い絵なのは嫌。アハハウフフなお花畑への逃亡が理想的です。走馬灯なんて垂れ流された日は地獄より地獄らしい悶絶が待っているでしょう。
まぁ、幻覚でもなんでも助けてくれるのであれば、乗っかります。それが既知ならなお好し。人見知りはしませんが、初めて会う方に助けて貰うとなると、色々と面倒じゃないですか。助かった方が地獄だったなんて救われません。
現状を鑑みると、最低ながらも、まずますの結果かと…
しかし、人間はまったりと今以上を望むものなので、現状への不満がむくっと頭を擡げます。
…えー…助けて貰っておいて、相手に文句を言えた義理はありませんが、体勢が非常に不本意。
人、これをおんぶと呼びます。
恥ずかしさも勿論ですが…お城の宰相様あたりに見つかると、問答無用で銃撃戦が始まります。わたしを巻き込まないで欲しいものです。一応止めますが、巻き込まれたら速やかに逃げると決めています。流れ弾に当たったわたし以外の方、南無三です。化けて出ないで速やかに成仏して下さい…あ、信仰が違うとか、適度に折り曲げて下さい。それが嫌なら生きて逃げ延びて下さい。神様より自分の力を信じましょう。…不信心で甚だ申し訳ない限り。
そんなことを、つらつらと考えている間に、狭い視界から僅かに覘く、エースの襟足
に積もった雪帽子がその厚みを増します。
「よっと!」
スラリとした体型の騎士様は、爽やかに雪原を駆け抜けます。
別に歩けばいいのに、なんて文句を付けたりしません。全くエネルギーの変換効率の悪い男です。見渡せど、見渡せども処女雪です。先刻より、雪も小降りになり、楽しむ余裕ができました。
…とは申せど、視界は見飽きる程の雪なんですがね。
景色が素敵だと思うのは自身の安全確保ができてのことだと思うのですよ。
今のわたしにはエースの外套の赤や、その着衣の黒に心安らぎます。
とても、景色を褒め称える描写なぞするつもりにはなれません。
ただ、白としか。
時に、先程から、わたしは全身がシェイクされていますが、粗忽に舌を噛んだりはしません。人間は学習する生き物なのです。
足首の疼痛の具合は…よくわかりません。ただ、凍傷を覚悟したわたしの末端はエースにより守られ、霜焼け程度で済みそう…
幸いなことはもう一つ、遊園地のコースターで鍛えた、わたしの三半規管はこの程度の振動は児戯に等しいのです。むしろ楽しくなってきます。…大人なので。
猶、異議は認めません。
「………」
先程の雑木林から凍りついた湖畔に出ました。
…わたしの滞在先のクローバーの塔にちょっと近寄りました。この男にしては奇跡です。
彼はブーツで今降り積もった雪を蹴散らし、道なき道を突き進みます。ざくざく。
「…寒くありませんか?」
エースは自分のコートに保護したわたしを刳るのでいます。…珍しく美談です。泣けます。…疲れているので涙が出ませんが、心の中は感涙で咽び…しらじらしいですね。ははは。
「えー?何ー?」
正面を見据えたまま、彼は歩みを止めません。規則正しく、雪原から足を抜いて、振り下ろす動作を左右順序良く繰り返します。…身体能力から察するに、彼の三半規管には異常は認められません。身体能力を考慮すると、むしろ常人以上であるはずなのですが。
きっと三半規管以外の異常が彼にはあるのでしょう。おいたわしや。…先程まで右手方向に湖面があったのですが、今は背後にそれがあります。…何故でしょうね。
わたしも彼らこの世界の住人と会話のコツを覚えた一人です。必要なことならば、諦めません。
「寒くありませんか?」
「…はははっ!ごめん、よく聞こえない!」
再度、問いかけますが、答えはにべもない。
でも、仕方ありません。
声は進行方向とは反対に流れるのです。しかも今は彼におんぶされています。(大事なことなので二度言います)
辺りに満ちる寒気故、エースの耳が真っ赤で可哀想です。いくら彼でも、冬ならば白い呼気も吐き出すというものです。寒くないわけがない。
故にコートを奪っている、この現状をわたしだってちょっと申し訳ないと思って言葉遣いも改まろうというものです。
すぅ。
一呼吸して、彼の耳の近くに唇を寄せるように伸びをして、訊きました。
「さーむーくーあーりーまーせーんーかー?」
この問いかけがお気に召して下さったようで、騎士様はお答え下さいました。
「…そこまで大きな声を出さなくても聞こえるぜ……寒くないとは言わないけれど、君を抱いているし、走っている。……だから大丈夫」
俺は騎士なのだから。
シンとした雪原は声を響かせます。言うことがイチイチ意味深であることを除けば、
遭難しかけて気弱になっていたわたしの心に沁みます。うう。
エースは冬の領地の雑木林で足を痛めたわたしを助けてくれました。
…彼は、たまたまいつものように迷子の途中だったのですけどね。そこは目を瞑ってやろうじゃないですか。正義のヒーローのセンターは赤と決まっています。彼は赤く、かつわたしを助けてくれたので、正義です。…わたしはこの世界に毒されたかもしれません。
わたしだって、不思議の国であってもなくても凍死は嫌です。雪に埋もれてしまって、確実に季節が巡らないとわたしの遺体は発見されないことうけあいですし。
麗らかな春に腐乱の始まった遺体発見
燦々たる夏に確実に腐乱死体なわたし発見
落葉が地面を埋める秋に…発見されないニオイのモトなわたしの遺体
…選べません。どれも厭です。嗚呼、生きているって素晴らしい。
ああ、この常に迷子のお兄ちゃんの進行方向は、雑木林に突入しました。
ここはいけません。雪で樹木の根が隠れています。
常の季節ならぬ季節ならば、時折浮き出た血管のようなそれはエースの足を引っ掛けます。ベッタベタな嫌な予想は、当然こなされること。
当然のように、雪に埋もれたトラップのせいで、わたしは空中にぽーんと放り投げられます。
「きゃう!」
悲鳴が出るとは我ながら余裕です。このままでは顔面から雪に埋もれます。
「はははははは…」
爽やかな笑声がドップラー効果を発してわたしに近づきます。…いや、わたしが近づく?
「はははははは…」
まあどちらにしろドップラーです。
大腿まで埋もれる雪原を信じられないほど素早く移動し、エースはわたしをキャッチします。そして、ぐるんと頭が揺れたと思ったら、荷物のように肩に担がれました。…ちょっと不満です。
そんな不満が顔に出ても、彼には分かる訳がありません。…が、嫌がらせのように、今度はお姫様抱っこの体勢です。
「わたしはサーカスのジャグリングの道具じゃないです!」
いくら恩義があれども、主張はしなければいけません。そうでないと、彼のなすがままです。…それに、彼は一度助けたものの面倒は看てくれます。メジロ達がそうであったように。
「うん。君はジョーカーさんのところの小道具なんかじゃないし、俺も道化たジャグラーではない……うぉっとと!!」
「きゃ…ぅ!」
言葉とは裏腹に、彼はまた、わたしを使って空中に放物線を描きます。雪で重たく撓(たわ)んだ枝葉がわたしの視界にズームインです。間抜けな悲鳴も出てしまうものですよ。
今度は滑ったようです。バックオーライでわたしを受け止め、腕の中に収めます。
雪に覆われているとはいえ、地面と熱烈にキスするなどという奇特な趣味は、わたしにはありません。宰相様ことペーターのように、雑菌を忌み嫌ってよって、世の中全て消毒したいほどのモチベーションもありませんが、落とさないでくれるのは、大変ありがたいです。…そもそも転ぶなよ、というツッコミも今はできません。
…仕方ないのです。
遭難なんてベタなことをやったばかりのわたしにはどじっ娘フラグが立っています。…フラグってなんでしょうね?アハハウフフ。
あ、開き直ったわけじゃないですよ?
ロリータなフラグが立っているかどうかも不明です。アハハウフフ。
「……あったかいです」
文句を飲み込むと、そんな言葉しか出てきません。先程から空中にぽんぽん飛ぶので、方向感覚は失われました。まさにホワイトアウトです。
もう、いちいち息を吐き出すのはやめました。その分冷えた空気が肺を満たすので噎せてしまいそうだからです。
「ははっ!そりゃ、あの雪景色の雑木林と比べたら」
そうなのです。わたしはそこで発見されました。とても救助者エースに物申すことなぞできましょうか。
「…で、なんで君はあんなところに居たの?…自殺願望でもあった?…俺としては冬の季節の山奥で、孤独に逝くことはお勧めしないな。だって、発見する側が迷惑だろ?」
…あなたもでしょうが。って、自殺願望なんかないし。
そんなツッコミは、暖かい腕の中で溶かします。今のわたしは融点低いのです。
「…タラの芽を探していて」
ちょっと言いにくいので、小声になりました。
タラの芽?と流石に怪訝な顔をするエースにいきさつを説明しました。
ぽんぽん投げられなくなって、揺れにも慣れてきて…安心して、あたたかくて、眠いのですが、冬に屋外で寝たら死ぬと思います。眠らない為に、頑張って会話を続けます。
そして、いい加減慣れたお姫様抱っこの現状では、説明に声を張り上げることなく、会話ができるのです。彼の欲しい情報を垂れ流している間は空中散歩する必要がないことは不思議ですが、まあどうでもいいです。
…これが大人になったということでしょうか?
「…そもそも、ナイトメアが公魚(わかさぎ)の天麩羅を食べたいとグレイにゴネたところから始まって…」
それって友情イベントではという声は無視です。無視。
そう、公魚の天麩羅は鮟鱇(あんこう)の鍋に摩り替わったのですよ。そして、ナイトメアの絶賛鍋ブームはグレイの「致命傷☆薬膳鍋」によって壊滅的な打撃を受け、鎮火したのですが、なんとなく「天麩羅とは何ぞ?」という疑問を抱えたまま帽子屋屋敷に遊びに行ったところ「○シュランガイト」なんて本があって、その中に「天麩羅の名店」の記述があったりして。
…ミーハーですか?…そうですよ、仰る通りです。…食べたくなったのですよ。仕方ないじゃないですか。「春の味覚、タラの芽、苦味がお酒に合う」ってあったのですよ。…たまには呑みたいじゃないですか。大人は呑まなくちゃやっていられない日だってあるのです。
その本を理由にグレイの前で呑んだっていいじゃないですか「そんなに酔わせてどうするつもり?」なんてちょっと大人の展開を愉しんでみたいじゃないですか。
正直、一仕事終えて、仕事の杞憂なく呑んだら「あー…このために生きている」って思うのですよ。
酒は百薬の長ですよ。呑んで何が悪いって言うのですか。
呑んで呑まれて、今宵どうにか…って…あれ?キャラがズレた。あなたも呑んで忘れて下さい。(未成年さんはだめですよ。成人さんも不法行為はだめですよー)
「…そんな感じで、タラの芽は雪解けの頃にあるって書いてあったので、領土の端をぐるっと周ったら、もしかしてあるかなと思ったんですよ」
「…ふうん。俺も酒を嗜む一人だから分かるよ」
ぎく。
そろり、と視線を上げると含むところなぞ何も無いという爽やかな微笑み。
「しかし、酒のつまみを探して、遭難死って、どうなのだろうと思うのだけれど?」
ああ、嫌ですねそんな駄目な大人の代名詞的な死亡因子…
「…何のことやらさっぱりです」
―――とぼける以外に、わたしに選択肢がありましょうや?
「ユリウスに説教でもして貰おうか?」
――――そう来ましたか。
「――――――――…あい…」
寒くて顔が悴(かじか)んで言葉がちょっと変ですね。でも言い直すのには短すぎる言葉です。
まるで、出来の悪い妹。もちろんエースは何だかんだ悪戯で、色々目を瞑れば、優しいお兄ちゃん的存在なのですよ。ユリウスは…お父さん?
兄妹でお父さんに叱られるの図。想像に難くない。ちょっと嘆息です。
ざっくざっく。いつのまにか、緩やかなテンポでエース足音が聞こえます。
ぬくぬくとした腕の中は、疲労感が瞼を押し下げます。わたし、生理的欲求には忠実な方です。逆らったって体を壊すだけですもの。
「………」
―――――ぽふ。
話し疲れたのと、今更なので、エースに頬を寄せます。こうした方が、楽な上、温かいです。
エースは抱え直してくれて、なお且つコートでしっかり包み直してくれます。
「………」
手足の末端までちゃんと暖かいです。エースが擦(さす)ってくれていました。霜焼けにすらならずに済みそうです。
「非常に満足…これで無事に帰れられるなら…」
「…君って…図太いなぁ…」
苦笑したエースの顔が視界にちらりと入りました。苦笑のくせにやたら爽やかです。苦みは気付かなかったフリして、笑顔を返します。…だって瞼が本当に重いのです。
「…いいよ…寝て」
ぎゅっと少しだけ強く抱きしめられました。暖かい吐息を共有して、わたしは意識を手放したのだと思います。
目が覚めて、顔に覗き込まれる経験というのは、とても複雑なものです。
それが、複数人となると、叫ぶどころか、声も出ません。
「気が付いたか…」
気持ちを押し隠すことなく、嬉しそうな声を出すのはナイトメア。
ほっとしたような安堵のそれを滑り出すのは、グレイとユリウス。
「やあ、生還おめでとう。よく眠っていたぜ」
エースは今しがた、ユリウスに説教されていたようです。悪びれもせず、極上の微笑みを向けてくれます。
彼のコートは暖炉脇に寄せた椅子に干してあるようです。
…命の恩人なので、いつもより三割増しで素敵に思えます。
「君って本当に…」
生還の事実をかみ締める間も、お礼を言う間もなく、にやにやと赤いコートの代わりに毛布を纏った騎士が微笑みます。
雰囲気を察したのか、ユリウスが助け舟を出してくれます。流石の我らのおとうさまです。
「…エース。お前ももう少し温まれ」
「え、アリスとベッドを共にしろっていうこと?」
「人妻に何さらす気だ、この『ぴー』騎士。いい加減…」
…妻。そうわたしは人妻なのです。こんな風に時折エースに口汚く罵しるグレイと所帯を持つことになりました。いわゆる新妻です。まだ新婚数えて…何時間帯でしたっけ?…とにかくそんな状態です。
妻。故に…大人になるべく言葉遣いを改めるところから始めました。
実際に妻らしいことなんて他にはしていないのですよね、実際。
何せ、挙式込みで、妻初めて数時間帯ですから。
仕事があるので新婚旅行なぞ、我らにはないのです。式を挙げられただけ、奇跡です。むしろ式は挙げなくてもと思ったのですが、周りの大人達が許してくれませんでした。
だから結婚指輪もありませんよ。せめて言葉遣いを改める程度の意識改革をしようかと。
―――爛れた大人になっちゃいけないような気が致しまして。
ビバルディやペーターが「この国のバージンロードが赤いのは、新郎が花嫁の為に自分の血と、更に絞り出した血と涙で染め上げる」などという与太話をしてくれたので、危うく新郎が信じて、未亡人一歩手前でした。…非常に危険でした。
ペーターの長い都合の良い言葉だけ拾うお耳にでも入ったら嬉々として最後の仕上げをしてくれたでしょう。…そんな皆様の重たい愛なぞ、受け止められません。
そもそもそんな緋毛氈は足元がびちゃびちゃでぐずぐずです。鮮血に染まった花嫁なんてホラーです。
湿気が嫌だからと、乾かしてしまうと、どうしても緋ではなく、茶に近くなってしまいますしね…え?何か間違っていますか?
「人妻ってさーなんか響きが淫猥だよね。ははっ!俺の妻とか、もっと言い方があるのにさ。ははっトカゲさんの脳内って桃色で満ちているんだろうなっ」
「……―――ごふっ」
あ、ナイトメアがエースの脳内を読んだようです。鼻血の代わりに吐血をしました。鮮やかなので、前回の吐血から間もないようです。
いつもは何か物申してからの吐血なのに、その暇(いとま)も無い程、えげつない想像だったのでしょうか?
「…うー……おまえの頭の中も、グレイと大差ないかもしれない…―――…げふげふげふげふっ」
よせばいいのに、ナイトメアは激しく咳きこみ、酸欠を起こして、その場にすとんと崩れ落ちました。
頭を打つことはありません。グレイがちゃんと受け止めます。
「えー…トカゲさんごときと一緒にしないでよ!ひどいぜ!」
エースの失礼な抗議は、見慣れた血染めの惨状に掻き消されました。
「…ナイトメア様も君を心配しておられた」
流石、大人キャラです。グレイは口許に若干の痙攣が見受けられますが、構うと悪化するので火中の栗を拾ったりしません。―――時々は拾いますが。
手馴れた調子で、旦那様たるグレイ(もっとも気恥ずかしくて旦那様なんて一度も呼ぶことなく、グレイと呼び続けています)が、わたしに説明してくれました。
真摯な表情なので「おられた」という敬語は間違っているとは訂正できる雰囲気ではいありません。
ナイトメア曰く、昔は悪かったという名残でしょうか?
もっとも、わたしの遭難の事実の前には敬語を誤って覚えている旦那様の現実は些事です。
「ご…ごめんなさい…」
こういう時はさっさと謝るに限ります。大人達はわたしが反省する程度に程よくわたしを叱り、子供達が反感を持たない程度の長さでお説教を収めます。
どちらにしろ、反省しているので、さっさと謝るに限ります。
「……あー…」
咳払いをひとつ、ユリウスがお説教を始めようと口を開き、グレイがそれを宥めるタイミングを計りだしたのは分かりました。
「…ははっ人妻が謝るって、なんか不倫の現場を押さえられたみたい」
しかし、ノーマークだった救世主エースがとんでもないことを悪意あふれるとしか思えないタイミングでするりと滑りこませて来ました。
「…不倫?」
ああ、確認するように発したナイトメアの一言がまるで肯定するかのような誤解を与えます。
ユリウスとグレイが硬直しました。失礼な男達です。わたしを疑うとは、どちくしょうです。
「アリスは俺の腕の中で眠ったんだぜー」
…それは事実かもしれません。しかし、エースの事実を切り取った一言は誤解を招く以外の何物でもありません。
「ほう。それは何とも羨ましい話だ…いやいや」
事実を知る故に危機感の無い(また勝手に心を覗いたな)ナイトメアをぎろりと睨んでやりました。
何故睨まれるのか分からないといった体で、首を竦めて視線を外します。上手になったものです。いや、元々そうだったかもしれません…どっちなのでしょう?わたしは小首を傾げます。
無視した訳ではないのですが、仲間外れを嫌がるこの男は、自分から意識が逸れたと思うや否や、更に追い打ちをかけてきます。
「トカゲさんと、アリスってまだだったのだろう?」
発言主以外、全員絶句です。
…的確なご推察ですが、誤解の連鎖、悪意ありですよね?
…その発言、まるで「奪っちゃった、ごめんね」って優位発言ともとれます。
ユリウスさえも、顔色を変えています。ああ、いけません。このままでは新妻(数時間帯)で間男を持った希代の悪女決定コースです。
喜んでくれるのは、ビバルディくらいのものです。あああ…
『あれ?グレイって、結局新婚早々余所者の奥様に浮気されたのだ。そうよね、不慣れな土地で生活の安定を基準に…』なんて悪意ある噂の渦中の人になる姿が目に浮かびます。
がーんがーん…ロリーナ姉さんが泣き顔が目に浮かびます。
しかし、即座に否定しても「ムキになっちゃって」と交ぜっ返されるのがオチです。ここは大人として寛容な態度を示したいと思います。
「………ふぅ」
ひとつ溜息をついて、わたしも平静さを取り戻します。先ほどまでのやりとりの間に横たわっていたマットレス(ああ、ハートの国の時にユリウスが存在を仄めかしていましたね。初めて見たような気がします)では半身起こしていました。
視界が少し拓けたので、全員の表情がよくわかります。
あ、グレイがそろそろ沸点のようです。
この後のグレイの行動はおおよそ決まっています。
まず、エースの無自覚な挑発を限界まで我慢します。理由は上司たるナイトメアに見苦しいものをみせないためとのことですが、正直めんどくさいのでしょう。
そして、怒りの炉がメルトダウンすると、罵倒しながら両腕に仕込んだナイフを振り回すのです。
暗殺者って暗器を使うものなのでしょうが、ナイトメアの補佐として日々多忙を極める彼は隠すもの面倒になったのでしょうか?武器と殺気がだだ漏れです。
…ユリウスならエースの無差別な挑発を静止しそうなものですが、グレイに対して、そのような姿を見受けられることはありません。
…小動物の世話を押し付けられて正直ウザいんでしょうか?
グレイはユリウスに懐いているように思われますが。あ、もしかしてエースはそれが気に入らないのでしょうか?まるで女学生同士の抗争のようですね。
「………」
「…暴れるなら他所でやれ。…どうした、トカゲ?」
これぞ大人の発言かもしれません。
きっとこの中で面倒見の良さは上位に入るユリウスが良く響く声で、場の空気を察して声をかけます。
…グレイの様子が変です。いや、暴れないことはいいことなのですが…こう……
嵐が吹きすさぶような顔をしています?
「…そうか?」
「ナイトメア…人の心を勝手に読まないでください」
「…君、なんか冷たいぞ?」
心外です。これでも夫の上司であり、自分の上司であり友人であり、よき隣人たる家主であらせられるのですから。妻としてはしっかり押さえておきたいポイントです。
「…ポイントって…ひどいぞ。悪化しているじゃないか」
「だから、勝手に心を読まないで!」
「あ、いつものアリスだ」
…失言です。妻失格です。
「…そんな君は大げさだ…妻失格だなんて…」
再三に渡る抗議も空しく、ナイトメアはやはり心を読んでしまいます。
「…読まないでいただけますか?」
にっこり。人妻らしい余裕の頬笑みです。まだ駆け出しの人妻なので、多少引き攣ったものになったでしょうが、それもご愛敬というものです。
「…な、なんだ?グレイの料理くらい不気味だぞ?」
この失礼な、夫とわたしの共通の上司は、時々どちくしょうです。
そうやって、ナイトメアと掛け合いを続けていたら、お父様ことユリウスから侮蔑に満ちたお声がかかりました。
「…このまま、ここでそうやっているがいい」
発言の意図が分からず、きょとんとした顔を向けたところ、エースが無邪気に手を引きます。
その手は楽しげにソファーに腰掛けるように…やや引っ張るように促し、ユリウスはコーヒーを渡してくれます。
「おい。偉いわたしを無視するな」
ナイトメアには珈琲もソファーも勧められません。ちょっと可哀想です。ユリウスはそんな彼に視線をちろりと向けて、溜息をひとつ吐き…視線を戻します。
「…う…酷い」
全くです。エースのように端から相手をしないのではなく、認識した上で相手をしないなんて。あれがわたしなら、大変にいたたまれません。
しかし、同情の視線を向ける間もなく、それは始まりました。
「まったく…お前は…さして豪雪に慣れている訳でも、山歩きに慣れている訳でもなく、あまつさえちゃんと装備を整えず……」
耳の痛いお説教が始まるようです。
ソファーに促されたり、珈琲を淹れてくれたりと、彼らの紳士的な優しさに絆されていたら、お説教から逃げられない態勢に持ち込まれていました。
…どちくしょうです。
まあ、お説教自体、無事を確認したからこその生産性のある行為なのですが。
「エース、お前も…」
エースと二人、ちらりと微笑みを交わしながら、いつものようにお説教を聞きます。
わたしのどちくしょうな上司はお説教が大嫌いなので、巻き込まれないようにそろりと部屋から逃げ出したようです。
「……わかったか?これに懲りて二度と、軽率な行為は慎むように」
最後には、ユリウスはくしゃっと頭を撫でてくれました。えへへ。なでなで…
「あ、ユリウス俺には?」
「やるか!気色悪い!」
「えー……」
ぶーたれるエースにはわたしが代わりに頭を撫ぜます。なでなで。
「助けてくれてありがとうございます」
ぺこり。ありがとうとごめんなさいは人生の基本です。
「……どういたしまして」
眼を細めて気持ちよさそうにわたしの掌の感触を楽しんでくれたようでした。
「しかえし」
「…おかえしといいなさい」
エースも頭をなでなでしてくれました。…ああ生還万歳。
「……おなかすいたね。寒いからポトフでも食べたいなぁ」
「お肉の仕込みがしてありませんよ」
ポトフ。簡単なロシア料理ですが、美味しく作るには、ちょっとコツが要ります。
豚さんの塊(エースに言わせると解体した死体の一部らしいですよ)にタイムやオレガノ、グローブなんかのハーブと、にんにく、塩、胡椒で作った漬け汁に数日漬けておくのです。あ、ローリエも忘れずに。月桂樹は勝利のポーズに不可欠なので、最後と覚えるのが良いでしょう。
この寒さなので、熱々簡単ポトフは食べる方にも作る方にも人気のメニューです。
ついついこのメニューばかりになってしまうので、仕込みを自重していました。
「仕込みならしてあるぞ…ちょうど漬かり具合食べごろだ」
ユリウスが作業机に向かいました。夕食まで一仕事するようです。
「…キャベツが」
「あるよー春キャベツ」
エースがどこからともなく、もりっと巨大なそれを出しました。
「はい。新ジャガも」
キュートな王冠印の麻袋に、ずっしり入っています。
…この男はこの重量物をどこに隠していたのでしょうか?
一応聞いてみます。
「ソーセージとか」
「あるよー三度豆も要る?マスタードもいいのが手に入ったんだ」
「そうきましたかー…」
好青年の笑顔に流されがちですが、彼のワンダーなポケットは未来の世界のネコ型ロボットも真っ青(もとからか…)な品揃えです。これは作るしかありませんね。
「…わかりました」
そんなに食べたかったのですね…ユリウスを見ると、頬を少し染めています。…これは期待しているようです。時々ちゃっかりしていますよね、この男。
さて、台所に向かいます。冬は水仕事がちょっと辛いですが、三人での食事はちょっと嬉しいので、どんとこいです。時間帯もちょうど、夜の時間帯に変わったようです。しっかり温まってシャワーも浴びてゆっくり眠りたいです。痛めた足は走ると痛い程度。応急処置が良かったのと、冷やしたくもなかったですが、腫れをよく冷やしたからでしょうか?
「ツイてるかも」
そんなうきうき気分でお台所に立ちました。
エースからでっかいキャベツを捌こうかとのお申し出がありましたが、丁重にお断りしました。
「命の恩人さんにそんなお手間を取らせては申し訳ないです」
愛用ということであの大剣で気合一閃されると、折角の春キャベツが酸っぱくなる気がします。
…確かエースに剣の手入れに使う油は経口摂取すると有毒と聞いたばかりですし。
こういうの、フラグとか伏線って言うのですよね?
彼はドジっ子属性なので、うっかりキャベツをダメにしないとも限りませんし、ね。
ことこと煮込んで、いい香りが辺りに満ちたころ、いつものように三人で食卓を囲みます。
わたしの世界の常識では、所属階級が異なるこの三人が食卓を囲むなんて世間様が白い眼で見られるところですが、ここではそんなことは関係なく、とても楽です。
食前のお祈りもありません。
瓶詰めにしてあったピクルスを適当に盛り付けて、パン籠にナプキンを敷いて、暖め直したホットクロスバンを入れる。イースター以外でも食べるのです。悪しからず。
ユリウスの好みも考えてみたが、卑屈とはいえ、わざわざ燕麦や大麦、ライ麦などのパンを手配してまで食べるわけではない。小麦のパンに疑問を抱かず手を伸ばす。
騎士のくせにビーフィーター・ジンを嗜むエース。本当はウォッカといきたいところですね。わかります。
「…?あれ?」
…いつもの風景です。
わたしの皿のポトフが残り四分の一ほどになり、千切ったパンを口に運んでいる途中で気づきました。
「…なんだ?」
いつもの風景過ぎます、お父様。
「ああああ!!!わたし、新婚さんでした!!!」
「やかましい。叫ばなくても聞こえている」
にべもない!
「ふーん、そうだったっけ?あ、アリス、もうひとつそのパン、サーブして。このパン美味しいなぁ…」
こっちはスルー!
なんて男達なのでしょう!
「…はい」
慌て過ぎて、普通に返してしまう自分が嫌だ…
見るとユリウスも平静に食事を続けています。
「…早々にエースと浮気して、とりあえず家を出て、男のところに転がりこんで、離婚協議に入るという話だったのではないのか?」
ユリウスは二つ目のホットクロスバンを手に取ります。言ってくれたらサーブするのに。
…気に入ったのですね。それ。
「そ、そんな生々しい…っていうか、娘の離婚を止めるのが親ってものじゃ…」
「そもそも、わたしは娘を持った覚えがないし、親でもない」
「そっかーだからユリウスは止めないんだね、離婚」
「ああ、むしろ清々する。娘を傷モノにした、あの男は許さんが…」
「どっちなんだよ」
男同士、もしくは親友の間柄らしい微笑みを交わして、二人は会話を続ける。
こんな時なのに、わたしが嫉妬してしまうほどの絆を感じます。
「でも、立ち位置が曖昧…ってわたし、浮気なんかまだしていまちぇん!!」
まだって…っていうか大事な局面で噛んでしまったよ…
「――――……」
この二人が流してくれる道理はなくて…
「…テーブルを叩いて、立ち上がってまで主張して…なのに…」
「言わないで」
一応、願望は告げておきます。神様ではないので声に出して願えば、確率五割で願いは叶うはずです。
「ふっ…くっ…ははははは!」
エースが身を捩(よじ)って笑いだしました。うん。切望だったのですが、無碍にも叶わなかったようです。
ああ、エースに願うようでは、わたしはダメ人間です。人間失格?
「…座れ。食事の途中だ。…アリス淑女(レディー)らしからぬ所作だぞ、そしてエースお前は笑いすぎだ」
「そんなこと言って、ユリウスも笑いを堪えるのに必死じゃないか…はははっ…」
野郎共は息も絶え絶えに笑いやがります。
「早く行かないと!」
「行く?――――どこに?」
「グレイのところによ!」
ああ、言葉遣いが乱れてしまいました。
行こうとするわたしの腕をユリウスが掴み、留めます。
「…―――せめて食事を終えて往け」
「そうだなっ!そして早く帰ってくるんだぜ?」
―――帰る?――――どこに?
…でも、わたしの頭はキンと痛み焦点が合わなくなります。
「…ああ、悪い悪い『可哀想なアリス』だな」
エースの笑顔。口許しか見えません。
思考の渦に溺れた視線が、掴もうとするものを探してユリウスを見つけました。
しかし、彼も。
視線を合わせてくれません。
―――…そのまま、三人で楽しく食事を終えました。
片付け物を終えて、ふと気づきます。
「…―――そうだ、グレイのところに行かなくちゃ」
わたしは二人に気づかれないように、するりと部屋を出て駆け出します。
しかし、彼らが気づいていることをわたしは承知しています。…きっと彼らも…
大回廊を抜け、螺旋階段を駆け抜けます。扉達の声、いっそ使おうかという思いが頭を過ぎりましたが、いつものように躊躇われて、自分の足で駆け抜けました。
さっき食事を終えたばかりなので、横っ腹は痛いし、ちょっと胃袋さんが押せ押せモード。
到着した頃には、息は切れて。額と背中につつと汗が流れます。
勢いのままにノックを二回します。
「……―――――ッ…」
いざ到着してみると、なんだか逃げ出したい気持ちです。
自分の行為の愚かしさを振り返ると、何の言い訳もできません。
「…離婚ですかね?」
滑り出た声が、耳から脳に伝わって、廻り巡って自分を苛みます。わたしって自虐的…
返事がないので、そろりと扉に手をかけると、それは自分の込めた力より強く部屋の内側へと引っ張られました。
「…!アリス!」
旦那様にタックルかましてしまいました。
「…うっ」
わたしの肩が鳩尾(みぞおち)にいい角度で入りました。…結構深いですよ。しかも、わたしは体勢を立て直そうと体を起こしました。
…肩が、グニっとグレイの胃袋を押し上げた感覚を感じました。…辛そうですね。
突撃、隣の晩ごはん!!
―胃の内容物からメニューを当ててみよう!!―
…脳内で冗談を言ってみたけれど、余りやりたくないと思っている自分を発見しました。
ヨネスケすげえ。
…わたしは、はたと気づきました。混ざっています。これが混乱というものでしょうか。
そろそろと視線を上げると、顔面を蒼白にしています。…やっちゃったか?
口許の緊張感といい、吐血寸前のナイトメアを彷彿とさせます。
ぱくぱくと、瀕死の魚がこんな風ですね。…お鍋にした鮟鱇(あんこう)が今のグレイに既視感(デジャヴ)です。……散々ですね、わたし。
「…………―――ぉ」
「お?」
「…―――お帰り」
…―――グレイは駄目な大人です…
こうやって、わたしを甘やかします。わたしを駄目にします。
色々、叱られることを覚悟して体を硬直させているわたしを…わたしの所為でせり上がるであろうものを宥めながら…それでも、ちゃんと男の見得を心得て、そっと肩を抱いてくれます。
…互いにグレイの鳩尾を気遣いながらなのは、新婚さんらしいご愛嬌かもしれません。 どちらともなく、視線を合わせては、また逸らして、でもまた合わせてと、もどかしい繰り返しをしながら、笑ってしまうのは大人でも照れくさいからです。
暫く、そうして笑いあって、そして呼吸が落ち着いた頃、お互いの温もりを感じます。
「………ぁ」
グレイは頬にかかったわたしの髪を、指を伸ばして払い、そのまま、指先で玩びます
扉の前で何をいちゃいちゃしてしまっているんだろうと、わたしは考えながらもそれをぼんやり見つめます。
煙草を吸っていたらしく、彼のジレから苦い臭いがしました。…一体何本吸ったのでしょう?煙草は誤魔化し様がなく、彼の指先からも、わたしの鼻腔を刺激します。
部屋側からもうもうと紫煙が溢れ出て来ます。
きっと、もうわたしの髪は煙草の臭いが付いて。
きっと、もう彼の灰皿は火事になっていて。
はやく、灰皿を…鎮火させなくてはいけないけれど。
はやく、グレイの部屋の換気をしないといけないけれど。
すぅ、と吸い込むお互いの呼吸が心地よくて。
わたしは背伸びをして、彼は背を屈めて頬を寄せ合います。
「…君が…その…ここに来てくれるとは思わなかった」
「…それは離婚ということでしょうか?」
わたしってばバツイチ?
「いや!…その、もし、君が…」
もじもじ…もぢもぢもぢもぢ…
「………」
…叱られるべき立場のわたしはイラッとしたとかしていないとか。
その後、グレイは言葉を選ぶようにゆっくりと、その掠れた声を紡ぎます。
「…いや、その選択肢は俺にはない……言外に距離を感じるが、これは気のせいだ」
憑き物が落ちたように、瞳にゆるぎない何かが定まっています。そのまま、わたしの掌を取ると、部屋へエスコートしてくれます。
「…体調は大丈夫か?」
「おかげさまで。ご心配をおかけしました…ごめんなさい」
これ以上、謝罪の言葉を遅らせると、二度と言い出せなくなりそうです。
グレイは、表情を豊かにも消すことも自在…しかし、瞳は痛いと叫んでいます。
「…何も言わなくていい…言わないでくれ。君を困らせたい理由ではないんだ…」
切なくも聞こえる、何か。
「…君が幸せなのが、最善だ。…しかし、あいつは駄目だ。あの『ぴーぴーぴー』…」
聞くに堪えない罵詈雑言というより、如何わし過ぎる言葉の羅列です。分かっちゃう自分が厭だ…
要は怒りの矛先をわたしではなく、エースにぶつけたようです。大人気ないなぁ…時々。
「命の恩人なのよ?…ってあなた絶対誤解しているわ!わたしは浮気なんて!」
一条の光が射したように、ドン黒い魔王のような表情の彼の顔。しかし、言葉は天使の梯子となり、輝きを齎(もたら)しました。
「…いや、しかし君は実家に…」
とんだネガティブ野郎です。…そこが可愛いのですが。
「実家って…そんなもの、この世界にはないわよ!」
ずきんと心が痛みます。わたしも他人のことは言えないネガティブさんです。
しかし、グレイの表情は少し和らいで…
「…いつもの、君だ」
「…人妻らしく、言葉遣いを改めたのに…」
ああ、もう思考の中でしか丁寧な言葉遣いは残っていません。
「…そうだったのか…そんなことしなくても、君は……」
わたしの努力は徒労そのものだったようです。
しかし、大きな掌で頭をくしゃくしゃと乱暴に撫ぜてくれるグレイ、という希少な生態を身を以って知ることができました
大人のくせに、子供のように照れて、それを掌に込めて。溢れ出たものは笑顔。
わたしの髪はくしゃりと乱れてしまいました。
…たまには、こういうのも悪くないですね。
なでなでして?
そんなこと、新婚さんでも、なかなか言えないから。
きっと、わたし達には貴重な機会だったと思うのです。
「しかし、しっかりしている君が、どうして、遭難なんて…」
…あ、そもそもの元凶たる、タラの芽って結局食べられませんでしたね。
でもわたし達、おなかいっぱいなので。
何せ、新婚さんですから。
わたしの答えを待たず、グレイが続けます。
「君が、無事に戻って来てくれて、よかった…君の帰還は喜ばしいが、騎士の上着に包まれた姿は絶望と言う程に苦かった」
言葉の合間に、乱れた髪を直そうとした、わたしをすっぽりと捕まえて、彼は囁きます。
「遭難した理由は訊かない。どんな理由であれ…もう、二度と遭難なんかしないでくれ…アリス…」
「あなたが、ユリウスの部屋にわたしを置いていったんじゃないの」
「いや…あの時は君の幸せを考えて、部屋を出たんだが…その後、猛烈な…何か良く分からないものと戦って…煙草を吸いに外に出て…その、弱った君の近くで吸うべきでないと…」
しどろもどろ。
…責められるべきはわたしにあるのに。
「…煙草を吸った理由はそれ?…部屋がこんなになるまで…」
ただでさえ、過労死の可能性が高い旦那様です。肺癌のリスクも含めて……のですが、未亡人リスクは軽減したいところです。
「…すまなかった。君から離れるべきではなかった…」
「そうすれば、君は遭難することもなかった」
…いや、それは違うと思うのですが。そもそも、わたしに全面的に非があるのですが、グレイは全部自分が悪いと引き受けてくれるようです。
うーん。駄目人間が生産されるだけなのですが…まぁいいです。こういうのが雨降って地固まるというのですよね?
こんなに近いのに、残念ながら、彼の顔は見えません。視界一杯に彼の黒い上着です。
呼吸が浅くなる程に、強く抱きしめられます。苦しそうなわたしに気づくと、腕を緩めてくれますが、すぐ忘れてまた強く抱きしめられます。
「酸欠になりそう…」
「…君を苦しめる気は全くない。…しかし、酸欠になれば何も考えないで…君は、俺のところに居てくれるだろう?」
…甘い台詞(モノ)は別腹ですよね?
でも、本当に…悪い男です。そんなことをしなくても…
わたしは小さく身じろぎして、腕を開放して、そのまま彼の背中に腕をまわしました。
頬に、彼の服の金具が当たって痛いのはすぐに気にならなくなるでしょう。
何せ、新婚さんですから。
「…今から、時計屋のところに、君のことを下さいと頭を下げに行かなければならないな…」
「だから…ユリウスはお父様じゃないってば」
甘い雰囲気は吹き飛んで。
グレイの頬を挟んで、ぐいっとこっちに向ける。
「………しかし…」
「だーかーらー…」
…何せ、新婚さんですから…ちょっと挫けそうですけれども。