男児は、その小さな掌ふたつを姉の頸根に這わせた。
幼いまなこには、世の道理より、情が満ち溢れている。
「離せ。」
いくつも違わない姉の丹唇から、迷うことなく短い詞が発せられる。
とても穏やかな口調であるが。
しかし、それは毅然とした命令である。
弟のそれより、姉の光彩には、詰め込まれた秩序が宿ってる。
弟はより強く姉の頸にしがみ付き、反意を示した。
両親が、子供達の為に用意した、専用のサロンに二人は居る。
上流階級の屋敷の中のたった一室だが、ここは子供の世界。
世の倣い通り、両親とは定期的に、一時間帯程度、一緒に過ごす。
上流階級の家族をする。それがゲームのルールだ。
やんちゃな男児が怪我をしないように、柔らかいカーペットが敷かれている。
両親は役割をよく果たしている。
ゲームなのか、それが肉親の情なのか、それとも・・・
姉だけの答えが欲しいが、姉だけには問えない。
幼い矜持心がそうさせる。ひとり必死に本を読み、答えを探した。
そんな彼を姉は一言で片付けた。
「真面目じゃのう。」
天才肌の姉は春のタンポポの綿毛のように気まぐれだった。
いつも先触れなしでに、弟の部屋にお茶を運ばせて、彼の調子を崩すのだった。
その姉がいつだったか、猫のように微笑み、人払いし新しいゲームを始めた。
うるさいカヴァネス達に眠るように云われた時間帯に、メイド達の目を抜け出して、この部屋で遊ぶという秘密のゲーム。
見つかりそうになると、姉だけならば、その美貌で使用人達に目溢しさせる。
弟だけならば、ただ目撃者は葬るのみ。
二人が一緒でも、ゲームを邪魔されたとして、殺してしまう。
咎める者なぞ誰も存在できない。
この部屋の大きな窓が姉のお気に入りだ。
昼の時間帯にはたっぷりの陽の光が入り、
夕の時間帯は部屋を真っ赤に染め上げる。
夜の時間帯はとっぷりとした闇を愉しむ。
悪甘いこのゲームを姉弟は悦しんだ。
現在の時間帯は、星明りに照らされている。
その部屋のカーペットの上で、弟は姉に覆いかぶさるように頸を押さえていた。
必死でしがみついていたとも、ゆるく押さえていたとも。
「そなたの願いは、叶わぬ。あれらは隠しておったが。」
彼女があれらと云うのは、両親のこと。
「女王候補でなければ、帝王学を学ばせる意味なぞ無かろう。」
弟にしか分からない程度に、口許を僅かに緩ませた。
「・・・あれにも野心があったのだな。」
姉の言うあれとは父親のことだろう。
幼くてもそれと分かる美貌の姉。
芙蓉の顔に隠した慧眼。
彼女の両親は、この美しい娘を領地のマナーハウスから余り連れ出さなかった。
他人の目に触れぬよう、噂話をした使用人は撃ち殺したりもした。
それが悪いことだとは思わない。常識だ。
姉も自ら手をかけたりはしなかったが、命令する時は専制君主のように躊躇なかった。
そんなことをが頭を過ぎり、姉の向こう、遠くを見た。
一瞬のことなのに、彼女には分かってしまう。
無言のまま、姉は弟の髪を手で梳いた。
柔らかく二度。
「ちゃんと櫛を通さぬか。お前の従者は何をしておる。」
弟が片手を放し、姉の手を止めると、姉は身を起こした。
弟はいつも姉の意図を探るが、いつも答えは姉の導きの先にある。
両親をさっさと殺せば良かったのか。
しかし、今更殺しても姉が女王陛下になることを変えられる訳ではない。
女王陛下が薨去したのか、それとも役を降りたのか。
役を降りるなぞあり得ないから、前者。
「役持ちになるからには、わらわは勝つぞ。このゲームに。」
ほほほ。幼い少女が、風格さえ備えて優美に笑う。
「・・・そなたとは遊んでやれなくなるの。」
「遊んでやったのはこっちだ。」
「ふふふ。今生の別れのような顔をして何を言う。」
硬い髪。文句を言いつつ手慰むが、ふと白い手を引いた。
「・・・ああ、しかし、それも面白い。」
怪訝な顔をしてしまったと弟は思った。
しかし、もう遅い。白磁のような両腕が彼の頬に伸びた。
「そなたの情けない顔が二度と見られのうなるのは、やはり、つまらぬ。」
両手弟の両頬を包んで、きゅっと狭めた。
意地悪をする姉の手を、できるだけ乱暴に、しかし傷つけぬように払う。
「わらわの手を払うとは不敬じゃ。」
きゅっと弟の鼻を摘まみ、すぐ放して笑う。
「ほんに、つまらぬのう。」
本意など悟らせず、何か新しいゲームをせねばと、長い睫毛を伏せる。
「・・・では、このゲーム姉貴の負けだ。」
「何じゃと?」
慧眼に透明な焔が見える。
誰よりも戦慄を走らせてくれる、この姉の眼差しは・・・特別だった。
弟という役は、格下の存在。滅多にお目にかかれない。
「それとも、女王に即位してもゲームを続けるか?」
「・・・そなた不敬じゃぞ。」
「未だ女王じゃない。」
弟は、姉の大腿に頭を乗せた。
いわゆる、畜生道に姉を堕としてしまえば、女王に不適格とされてしまうだろうか?
そんなことを考えていると、白魚のような指が、まだ柔らかい彼の頬を摘まみ、擽る。
それでも、其処から退こうとはしなかった。
「お前は、この部屋に女王を来させるつもりか?」
つっと頬をたどる姉の指がくすぐったいが、沈黙で応える。
そなたが、わらわを姉貴と呼ぶ日が来たか。
白魚は頬をつついて遊びまわる。堪らなくなって、それを掴んだ。
「では大人に相応しく、未来の、我が庭園で。」
「・・・悪くない。わらわの好きな薔薇園がよい。」
和りと少女は無邪気に笑った。
「色は、真紅じゃ!」
「声が高い。」
姉の口を押さえ、もう片手で静かにするようにジェスチャーをする。
扉の向こうの気配をやり過ごす。
足音は扉の前に止まった。
弟は満ち溢れる殺気と共に、武器を構える。
「・・・。」
足音の主は自分の幸運に一生気付く事はあるまい。
近づいてきた時と同じくらいの速さで通り過ぎて云った。
やはり、追いかけて始末しようかと弟が逡巡していると、姉が笑った。
芙蓉の眦が、艶を含む。
「・・・秘密の花園じゃな。」
「真紅の薔薇以外、何も植えてやらんぞ。」
「それでよい。」
美しい声。
「わらわのお忍びに相応しい薔薇園にせよ。」
決して女王陛下のお忍びではない。言外に含ませる。
ぶらんこで遊び、鳥の水のみに花を浮かべ、東屋でお茶をする。
好きな菓子を並べ、互いにお気に入りの玩具を持ち込んで。
「そこでは、他のゲームのルールは無効にしてやる。」
「さぞかし背徳に満ちることになるであろうの。」
互いに、お気に入りの玩具を持ち込んで。
互いに、お気に入りの玩具を持ち込んで。
互いに、お気に入りの玩具を持ち込んで。
END
あとがき
■設定[XX/XX/2009] Faceless.