逃げ出して来た身のアリスとしては、ハートの城に真っ直ぐ帰るのも、気分ではない。 囁かれた睦言が、面映くもあり、浮かれ立つ自分に叫びだしたいような気にもなり・・・。 時計塔で、数時間帯ぶりに、彼と会話して、彼の日向の猫のような匂いを嗅いで。 笑顔も転んだ姿も愛おしくて、手袋越しだけど私に触れてくれた。 灼々とした虹彩が好き。・・・時折しか見せてくれないのが残念。 アルマニャックの美しい髪が好き。コニャックより辛口で彼らしい。 すき すき すき ・・・とても好き。何もかもが愛おしい。 可愛くない返答しかできないけれど、既存の「女性とは」の概念を押し付けない彼が好き。 「・・・すき。」 溶岩煉瓦の敷き詰められた時計塔市街地の石畳は、言葉を反射した。 「・・・・・・何を言っているんだ、私は・・・」 足元を荒く踏みしめ、アリスはひたすらに火照る顔を冷ました。 彼が好き。 自分は好きじゃない。 思い切り叫んで気分を晴らしたいところだが、奇異な目を向けられるのは勘弁願いたい。 常識と良識が自身を苛む。 視線を上げると、昼の時間帯の活気。連れられて、下町方面にあてどなく足を向ければ、街往く人々は皆、手に職をつけた風。 エスコートされるばかりの女性ではなく、職業を持った風体のちょっと尖がった婦人達が颯爽と道を闊歩する。胸に抱いた憧憬そのものではないか。 そこに飛び込みたいのに、じくじくと足が痛い。歩き続けてきた石畳の町はいいことばかりではないのだ。 「辻馬車でもあればいいのに。」 この世界にはそのような概念は無いらしい。理由は・・・それは物騒なものだった。 「・・・本当にこの世界は・・・」 こんな時、ふと浮かぶ顔がある。 しかし、感慨に耽る間もなく、既知の顔ぶれに捕まる。 「アリス!」 「お姉さん!」 「遊ぼうよ!」 あっという間に三方から囲まれてしまう。 遊園地に居候している相変わらずパンクなボリスと門番装束そのままの双子の連れだ。
ボリスは自己紹介でチェシャ猫だと言った。ピンク色の髪から覗く、ピンと立った耳は、好奇心旺盛な猫のそれだ。 猫らしく足音はたてないクセに、歩く都度、しゃらりしゃらりと服飾のチェーンが鳴り、存在を示す。アリスとさほど歳は変わらないと思われるが、時間帯で推移するこの世界で年齢とは無意味なものであるかもしれない。 露出の多い服装からは想像もつかないが、機械には滅法強く、彼にそれらを語らせると夢中になって話し続ける。 いつか「露出の多い服で機械いじりしていると、怪我をするんだからね。」と教えてあげたいが、中々そのような機会こそ窺えない。 そして、双子達はトゥイードル・ディーとトゥイードル・ダムという。 二つ名は「ブラッディ・ツインズ(血まみれの双子)」・・・そっくりなものを示す慣用句のような名前とどちらがより悪辣であるのか。 それよりも、あどけない顔そのままで、帽子屋ファミリーという屈指のマフィア組織の門番を務めている。 門番屋敷のある家は見栄か金のどちらかのある屋敷であり、大概が、よぼよぼの老夫婦か、屈強な番兵を門番に据え、彼らに賃金を支払う価値があるということである。アリスもそのくらいは承知している。 この少年達は、肩書きこそ門番ではあるが、任された門には不在がちであるが、血なまぐさい現場には引っ張り出される程度に、この世界では屈指の使い手らしい。 彼らに、アリスの答えなぞ端から聴くつもりなぞない。 「…ひとさらい。」 「一人で下町なんか歩いているからだぜ。」 糸切り歯を魅せる笑顔。 「僕達、子供だてらにマフィアだよね。兄弟。」 内容にそぐわない、あどけない笑顔。 「今は休憩時間だから、拉致監禁には該当しないよね。兄弟。」 少しのんびりとした、無垢な笑顔の同意。 「…その論理は成立しないわ。」 少女の反論。しかし、年下の男の子に容易にひっくり返される。 「僕達マフィアだよ。お姉さん。」 「…その論理は成立するかもしれないわ。」 「僕達が、成立させるんだよ。お姉さん。」 「…そうね。そうなのよね…」 非日常な日常会話に、心が弾むが、気は休まる。彼らの予定通り、遊園地に足を向けることにした。
「Build it up with silver and gold.(絢爛豪華にロンドン橋を作ろうよ) Silver and gold.Silver and gold.(金銀財宝でつくろうよ) Build it up with silver and gold.(贅を尽くして橋を架けようよ) My fair lady.(私の麗しのお嬢様)」 そんな三人とアリスの四人連れ。いつもの遊び歌でさえ、楽しい気分を呼び寄せるおまじないのようだ。 ただ、謡いながら連れ立って遊園地に向かっているだけなのに。 やはり、彼らも子供たちの歌を聞いたらしい。 こういうものは感化されやすいものだ。 「なんだか可笑しい」 「本当だなっ」 露わな腹筋を、まるで痙攣させるようにして、ボリスは息も絶え絶え。 興奮した双子は、片方がアリスに抱きつくと、もう一人も負けじと。 「ちょっと」 「だって可笑しいんだもん、お姉さん。」 「そうそう、僕達子供だから赦してよ。」 一通り、笑いがおさまると、誰かがアリスのポケットのいい香りをかぎつけてきた。こういうものは、一度騒ぎ始めると止まらない。 まず、ポケットから溢れそうだった一番上の箱を皆で分けようと、アリスが提案すると、少年達は与えると輝かしい笑顔を向けてきた。 彼らの気分を、急転直下させるのは趣味ではないので、エースから貰ったものであることは内緒だ。 箱に四粒入ったショコラはちょうど一人一粒ずつ。それぞれの指が抓み上げ、口に放り込む。歩きながらなんて、行儀が悪い。これは四人だけの秘密。 鼻腔を貫けるような、少し苦みのある馨り。口どけ良くガナッシュクリームが口内に広がるにつれ、仄かに甘いシャンパンが、我もと顔を覗かせる。 「・・・美味しい。」 「何だアンタ、チョコレートが好きなのか?」 「チョコレートが嫌いな人に出会ったことなんてないわ。」 ボリスは少し鼻白むが、にっと笑い「違いない」と続けた。
双子達は子供に似つかわしくない、味と香りを吟味するように、口の中で蕩かすように食べている。母が存命の時のブランデーを楽しむ父のような顔だ。・・・まさしく、似つかわしくない。少し呆れた顔をしていたアリスにボリスが顔を近づけた。 「・・・今あんたとキスしたら、同じ香りがするのかな?」 気まぐれな猫のいつものちょっかいだ。 チョコレート色の吐息。いつもより大人の香りがするので、不覚にも心揺れる。 ジャキッ。 金属の擦れ合う音が、ボリスの鼻先に交差する。 「・・・ボリス。」 「・・・抜け駆けは無しだよ。」 「・・・んだよ、お前らも諦めてないのかよ。」 フューシャ・ピンクのファーを纏った男は、芝居がかった仕種で両手をあげて、アリスから顔を引いた。 フューシャとは釣浮草のことだ。別名、女王様の耳飾り。 同じようで全く違う王女様の耳飾りの異名のあるベゴニアのように楚々としない。 我ここにありとボリスのイエロー・ベリルのような瞳に不可思議な彩りを投げかけている。 ボリスの鼻先ということは、アリスにとっても至近距離だ。 毎度のことながら、驚愕に慣れることなどなく、とっさのことにアリスの身体は強張り、心臓は早鐘を打つ。つっと背中に嫌な汗が流れた。 目敏い双子がそれを見逃してくれるはずもなく、目配せし合っている。 大概がよからぬことであり、なるべく早く興味を逸らしてやるのが・・・ 「お姉さん。」 二つの斧が二つとも、鈍色を反射させる。興味本位で恐怖心の限界を探られるなんて、愉しいものではない。 「あんたたち、挟み撃ちしようとするの、止めてよ・・・。」 先読みをして、アリスはポケットを探り、お目当てのものを二つ、握り締めた。
「何のことかな、さっぱりわからないよ。兄弟は分かる?」 「僕は分からないよ、兄弟。お姉さんの趣味かな?」 ふと腕を弛緩させたかと思うと、遠心力を使ってその斧を構え直すのだ。 「それならば、僕達以上に適役は居ない。」 「そうだね、兄弟。二人だからこそ、愉しい。」 彩度を増して耀く、カーネリアンとアパタイトの視線がしっとりと舐めるようにアリスに絡ませる。 「…やめなさいってば。」 会話が途切れないうちに、ボンボンをそれぞれ二人にめがけて、放り投げる。 あさっての方向だったのに、斧を手放さずに、受け止めるあたり流石だ。 器用に、尻上がりの口笛はボリスから発せられた。 「…あ、あれ美味いやつだ。オレにもちょうだい。…柑橘系じゃないのがいいな。」 確か、葡萄味かストロベリー味があったはず。ピンクの包み紙だと、アリスを急かす。 気まぐれそのもの。もう興味はアリスのポケットにしかないらしい。偏食かしらと頭の片隅でちらりとそんなことを思う。 「ないわ。代わりにビスケットなら。」 「まぁいいや。…いい香り…これも美味そうだ。お礼に遊園地で飲み物おごってやるよ。」 「やったね、兄弟。タダで飲み食いできるよ。」 「そうだね、兄弟。お姉さんからタダで貰ったキャンディも美味しい。」 いつの間にやら、斧を引っ込めてディーとダムはボンボンに舌鼓を打っている。スキの一つも見せて欲しいものだが、それはエースに方向感覚を求める程に酷なことであろう。そして、そんなものを持ち合わせた日にはアイデンティティの崩壊だ。 ディーとダム。こうやってキャンディで頬を時々膨らませたりへこませたりしていると、とても可愛い。 軍人のような、無骨なブーツ、頭には門番らしく、大きい鍔のある帽子を乗せているが、それさえ愛らしく思えてしまう。 緊張が解れて、短い吐息。彼からの贈り物の香りを再び感じた。 アリスは、思い出したように、まだ咥内のショコラの余韻をこっそりと楽しんだ。 与えられたものは、惜しみなく分け与える。 このポケットの菓子が空になる頃には、きっと彼は名誉の為に私に会いにくる。 次は何で満たしてくれるだろう?
「・・・そういや、この辺りの領土の境界線が変わったって、おっさんが言ってたな。」 ビスケットを齧るボリスの気まぐれな会話に、興味なさそうに、双子が相槌を打つ。 「確か、おっさんの領土だったのに、帽子屋さんに取られたって聞いたぞ?お前らも関係してるんじゃねーの?」 双子は、きょとんと顔を見合わせる。 「いつの話だと思う?兄弟。よくあることで分からないということは、僕達超過労働じゃないのかな?」 「さあ、でも僕達は成功報酬として、特別手当を請求すべき案件だと思うよ、兄弟。」 「僕は特別手当てもいいけど、特別休暇が欲しいなぁ。」 「そうか、だから今休暇を取っているんだね。兄弟。でも手当ても欲しいな。」 どうせ、仕事をサボっているのだろうに。そう思っているのはボリスも一緒のはずだ。ボリスに同意を求める視線をやると、意外にも彼は耳を立てて、遠くを見ている。 「・・・?藪の中をこっちに突っ切ってくるヤツが居る。・・・すげー大股。」 アリスはボリスの耳を向けた先を目で追って、その後よく耳を澄ました。 まさか、エースじゃあるまいし、野生の熊に出くわして、追いかけられたりはしないだろう。仮にそうだとしても、こちらには三人の武等派が居る・・・ 双子達が、少しだけ嫌な笑いをしたとアリスは見咎めるが、何か言うより先に、がさっとひと際大きな音がする。 「!!」 藪から大きな影が飛び出して来た。 「おーまーえーらー・・・!!!」 地を這うように怒気を孕んだ声が、双子の背後にかかる。 「わっ馬鹿ウサギっ!」 「ひよこウサギが出たっ!」 「オレはウサギじゃねぇっ!」 予定調和のやりとり。少なくともアリスにはそう感じる。 叫ぶ青年の頭部にはそれは色鮮やかで美しいオレンジ色がかった金髪と、そこからにょっきりと生える柔らかそうなベージュのウサギの耳が突き出していた。 彼の名前はエリオット=マーチ、帽子屋ファミリーの次席だ。 いつもはもう少し、可愛らしげなそれは、怒気とともに重力に逆らってぴんと立っている。・・・ああ、触りたい、障りたいっ! あの耳は、どんな最高の職人が毛皮をなめしても敵わない、生きた手触りそのもの。アリスの手がうずうずと、僅かに握ったり開いたりを繰り返す。 その動きに非愛なるものを感じ取ったボリスが、一歩退いた。そ知らぬ顔で、アリスは暴れるお手々をそっと後ろに組んで隠した。
「そういえば。ここは帽子屋ファミリーの領土になったのだったわね。」 領地の範囲なら、エリオットも追いかけてくる。敵領土ならば、巨頭勢力、帽子屋ファミリーの亜たる者が軽挙妄動するわけにもいかない。 双子達にすれば運悪く、ちょうど逃げられない「際」で掴まってしまったということだ。いや、あの顔を見るとどちらともいえない。もしかしたら、この仲良しな追いかけっこも、彼らの言うところの「ゲーム」なのかもしれない。 「・・・アンタって肝が据わってるんだか、座ってないんだかよくわかんねーよな。」 ボリスが苦笑交じりに憎まれ口を叩く。アリスは彼の脚をしたたかに踏んでやった。叫び声を上げなかったが、シッポがぴぃんと立っているので、痛かったのだろう。 恨めし気な視線と、波打つように動くシッポが笑いを誘う。 アリスは手を腰に当てて得意気に胸を反らした後、その足を退けてやった。 その間にも賑やかに双子と論戦とも呼べないような稚拙な戦いを続けているのだが、長くは続かず、大柄な青年はホルスターに下げていた銃を引き抜いた。 「げ。」 アリスはとっとと身を翻して、遊園地方面に駆け出した。 背後から聞こえる銃声や金属音にいちいち足を止めていたら、命がいくつあっても足りはしない。 「兆弾の恐怖」というものはこの世界で得た経験だ。 この世界で武器を持たずに身を守るには、ちょっとしたコツが必要だ。 振り返らずに走れ! エリオットとも交流がある身としては、挨拶もせずに走り去るのは心苦しいが、内政干渉する気にはなれない。 今度、非礼を詫びようとだけ決めて、ひた走った。 息を切らせて遊園地に着くと、置いてきたはずのボリスが先に到着していて少々腹が立った。そんな批難の視線を軽く受け流す。 「オレ、猫だもん。抜け道か近道を教えてやろうとしたのに、アンタわき目も振らずに走って行っちゃうんだもんな。…アンタこそ冷たいぜ。」 昼の時間帯らしく、虹彩を細くする。獲物を弱らせる猫そのもののような、それ。 気取ったキングスイングリッシュを話すかと思いきや、気分によってはコックニー(ロンドンの下町訛り)で話す、本当に気分で全てを変える男だ。
飼い猫のダイナも、食べるわけでもないくせに、庭で蹲(うずくま)っていた小鳥の周囲をぐるぐるまわっていた。庭に降りて来た小鳥は、他の猛禽にでも襲われたのだろう。 さて、あの小鳥はどうなったのだろうか? 口角を上げて、獰猛そうな歯をちろりと覗かせる。ダイナと同じように、一周くるりとアリスを中心に回る。 「オレ、まだあのチョコレート食べ足りない気分なんだよね。あんたはまだあの味だよね・・・。」 ぴたりとボリスはアリスの正面で足を止めた。 「・・・。」 アリスは、ポケットからレモン味のボンボンを取り出し、さっさと口に含む。 まろやかな酸味が少し舌を刺す。 「・・・つれねーのな、アンタ。」 ボリスは苦笑して、優しい顔に戻った。 「ま、いいや。何かドリンク要るよな?」 アリスが頷くと、ニッと笑って、彼女の手を取りまた走り出す。 「・・・ちょ!」 転びそうになり、体勢を立て直して、だるい足を再び動かす。 「早く行こうぜ!」 気まぐれな猫に、そんな微笑を見せられては、アリスだって従わざるを得ない。 「…ぅっく!」 何か言おうとしたら、飴を飲み込んでしまいそうになった。 この世界で最もこじんまりした生命の危機を感じたのは、アリスだけの秘密。 …この小さな窒息さえ、あの騎士の姦策だったら、恐ろしいこと。
to be continued...
■中休み
各種生命の危機と、ポケットの中身の有効活用。
五章と六章は切る必要なかったのですが、Webとしては長すぎるというだけで切ってみた。
猫に「犬歯」って使えないなー。イカやタコ食べる文化じゃないだろうけれど、やっぱりボリスが食べたら腰が笑うんだろうか?
エースがチラチラ、チラリズム。
今日でサイト一ヶ月。よく続いたものだ・・・
[31/10/2009] Faceless.