第八章



 世界が揺れた。
 バンシーの叫びのように、否が応でも届くものには…耳を塞ぐことは児戯に等しい。
 世界のどこにいても、あのスピネルのような瞳と、それに纏わり付くような、鴉の濡れ羽のような長い髪に手足を縛られ、あの声を聞くのだ。
 彼女は灰色の服を纏い、腕にはだらりとした男児を抱いて…
 一条の赤い交わりが、小川に流れ込んで掻き消えてゆく。
 水面に風が走り、鱒が尾で飛沫を上げた。


 水面を揺らした風が、ここにも届く。

 底冷えする、石造りの時計塔。
 居住区は壁を漆喰で塗ってはいるが、年代物の敷物が薄くなっている。
 この部屋が他の部屋より少しだけ暖かいのは、仕事こそ金科玉条としているのではないかと疑わしい男がずっと鎮座しているからだ。
 規則正しい呼吸に反して、珍しく仕事の手が澱(よど)む。居座る来客に問うべき言葉を探している。
 男はユリウス、この時計塔の主。来客はビバルディ、ハートの城の女王陛下。

 この部屋の漆喰で塗られた壁は、数えられる程度には、剥落している。所々薄くなった敷物もそうであるが、主の頓着が無いからだ。尤もみすぼらしくは無い。元々工房なのだから。
「One, two buckle my shoe; Three, four knock at the door...( …ひ、ふ、み、よ)
 Five, six pick up sticks; Seven, eight lay them straight...(…いつ、む、なな、や)」
 戯れにしても呆れたことに、ビバルディは王笏でそれを数える。
 ふつりと、玲瓏な声を途切れさせる。そして、膝に手を戻した。

「…………難儀じゃ…」
 硝子窓と、脇に肘掛椅子。
 その椅子に、頭から指の先まで、ローブで包まれた姿で座る。
 鮮やかな紅に染めた爪で、王笏が膝の上から落ちないようにだけ絡ませる。



 ユリウスの居る作業机からならば、窓にかかる月と共に、一条の宗教画のような光景が浮かび上がる。
 …さながら、破戒と隠匿が主題というところか。時計塔の主、ユリウスの唇が皮肉に歪む。

 感傷的な噺をするならば、幾世代前の時計屋が作らせたもの。…余所者の為に、懸命に硝子を集めて大窓を作ったのだ。
 幽かな時計の記憶。
 …ユリウスは頭を振って、それを追い出す。

「……そうだな」
 ユリウスは浮かぶ情景を打ち消すように。相槌を打った。
 支配者階級の役持ちが、自分の領域内に居る。言論も支配できればいいのだが、人付き合いを拒む身としては、次の一手たる言葉が思い浮かばない。
 頭を巡らせる男に向かって、月影の女はゆったりと言葉をかける。
「…変梃(へんてこ)じゃ」
 くつくつと笑いながら、優雅な仕種で椅子から立ち上がり、ローブの裳を捌く。
 背筋を伸ばして、一歩 また一歩と作業机に歩み寄る。薔薇の香りが強くなる。
「…何が、だ」
 偏屈で名高い男は仕事道具を置き、眼鏡を外す。
 きつい視線をそのまま、まだ顔をローブで覆い隠したままの女王陛下に向けられた。
「お前がわらわに返答する…その返答が、阿呆のようじゃ…わらわの時計をよう修理せぬ、本物の阿呆じゃ」
「おい…」
 ユリウスが眉間の皺を深くした。凄みを効かせたつもりだろうが、フードを落したビバルディの何者も従えるような迫力と拮抗していた。

「…夕の時間帯のうちにここに来て、帰るつもりだったが…」
 思わせぶりに、吐息を一つ。ビバルディの余裕だ。
 今回の夕の時間帯は短かった。夜の時間帯と夜の時間帯の合間、時計塔から、一組の客が時計の修理依頼に来た程度の長さだった。
「……」
 沈黙を共有する。
 暗がりに慣れている二人の目は、互いが手に取るようにわかる。悟られているとしても、認めてはいけないとユリウスは唇を引き結んだ。
「…世界が揺れたからな。…それに、お前の騎士ほどじゃない」
「然(さ)もあり…おまえの傭兵にはならぬ。あやつは望めば望むほど、ルールに縛られてゆく。」
 玉の鈴を転がすような笑声。
「ああ、すっとする。滑稽じゃ。…お前もの」
 訝しげな顔を向けると、わからぬのか、とばかりの揶揄の視線を向けられた。



「世界が啼いた…」
 金毬が硝子越しに頬を摺り寄せるようにビバルディの眦に寄った。
「ルールは、役に縁り存外大きい」
 淑女にあるまじき、作業机の端に腰掛ける。危なっかしく思えるのは、その内面を知らないものだ。
「…あの子はどうなるのであろうの?」
「それ以上はルール違反だ」
 ユリウスは正面からビバルディの視線を受け止める。
「ふふ…阿呆な面だが、かわゆいの。」
「撃つぞ」
「遅い!」
 手にした王笏をユリウスの額の中央にぴたりと当てる。
 額を押さえられた男は動きを封じられた。
「…感謝せよ。今お前を害したりはせぬ。…全てはわらわの時計を修理した後じゃ。」
「…それが分かっていて、あいつは来ないのか」
 王笏を腹いせに払い退けると、ビバルディはバランスを崩した。
「おいっ!」
 ビバルディの腕を鷲掴みにして、床に転がるのを阻止する。揺れるローブの裾と共に、腕一杯に薔薇の強い香りがする。
「…その甘さが…!」
「うるさい!女!」
 ビバルディの言わんとすることは分かる。平静で居られないことも。
 一喝されたことと、掴まれた腕の痛みに、ビバルディは芙蓉の花がその色を染めるように、みるみる顔を赤くした。
「…ここがハートの城ならば、お前の首は胴体と泣き別れじゃ!」
「なら、城から出てくるな!女らしく、城に収まっていろ!」
 ユリウスも冷静さを欠いていた。
「…女ならばと言うならば、あの子をそうしてやる。わらわの獄に囚えてやる!」
「お前!」
「時計屋、お前には苛立ちなぞないか?…引越しは、何かが書き換わるだろう?時計がいつも変な音をたてる!」
 ビバルディが無法者の手を振り払った。
「ああ、お前はあの子を愛してなぞおらぬのだな。」
「…取り消せ」
「取り消さぬ。わらわは、この国であの子を愛する喜びを知った。自分のものにならぬのが歯がゆいが、先のことなぞ、誰にも分からぬ!あの子の!」
「……!」



 閃光。
 そして、介入。
 ユリウスは金属同士が擦れたような感覚に頭を抱えそうになる。ビバルディは毅然として顎を上げた。
「お前…」
「ルールだ。」
 嬉しそうに黒い装束を身にまとった青年が札を切った。
 役持ち二人がぐっと言葉に詰まる。

「…引越しは、アリスがそれを体験するまで、彼女の耳に入る可能性は全て絶たなくてはならない。私が介入してやったことを有り難く受け止めろ。」
「…忌々しい。」
 呟いたのはビバルディ。彼女とユリウスは、互いの武器の狙いがつけにくい距離に引き離されていた。
 この領域は夢。ユリウスの時計塔、ビバルディのハートの城に同じく、夢魔たる黒装束の領域。

「お前たちの嘆きが世界の震えの隙間から伝わってきたぞ。」
 いつもよりは顔色がよろしいようで、まず、ユリウスを揶揄した。
「余計なお世話だ!…嘆きなぞ、私にはない!葬儀屋がいちいち嘆きなぞするか!」
 冷静さを欠いたユリウスがどのくらいとも測れない空間に声を響き渡らせる。

 一呼吸して、その声に厭味をたっぷり練りこんで告げる。
「…ああ、お前の部下達の嘆きの間違いじゃないのか?」
 皮肉を込めて張り上げた彼の声は響く。
「なっ!」
「…然(さ)もあり…」

 向かい合わせのビバルディが王笏を片手に、もう片方でドレスの裳裾を捌いて、夢魔に歩み寄りながら、その紅唇に毒を盛る。
「…ナイトメア様、仕事をしてたもれ?とな?…情けのう…ぬしらの部下はたわけばかりじゃな。お前ごときが居なくても世界は廻る」
 前半はシナを作り、後半は轟然と女王の貫禄。

「…所詮カードだからとお前たちは言いたいのかもしれん。…しかし!私は夢魔として、特別だ。心を読む夢魔の中の夢魔だ。私は偉い。所詮などと言っているお前たちとは違う。」
 一呼吸のうちに青年は言い捨て、負けじと薄い胸を張るが、吸い込みすぎた呼吸で噎せてしまい、いまいち格好がつかない。



「阿呆じゃ…」
 ビバルディは片袖で口許を覆い、嫌そうに一歩退いた。
「…早く時計塔に帰してくれないか。仕事に戻りたい。」
「時計屋…お前は私が心配ではないのか?…っ」
 夢魔の頬が上気したかと思うと、さっと蒼白になり、喀血した。
「…おお。真っ赤じゃ。好いの。タールのような血は好かぬ……しかし、もう少し量が欲しいの。これ、景気よく逝かぬか」
「ここに工具があれば、投げつけてやるところなんだが。当たれば、それなりに流血が期待できるかもしれんぞ。」
「それは良い…」
 先ほどの険悪さを霧散させて、ビバルディとユリウスは笑みを交わした。
「貴様ら…私を蔑ろにし過ぎだ…」
 口許を慣れた調子で拭う。僅かに胸元と袖口を汚してしまうが、被害は少ない方だろう。
 擦った箇所の皮膚が赤くなっている。いかに青年の皮膚が繊細なものか代弁しているとうだ。

「世界を揺らすものに与えられる罰じゃ…そなたに問う。」
 ビバルディは威厳を正して、夢魔を見据える。青年は面白く無さそうに、ふいと視線を逸らし、ユリウスはその様子に溜息を漏らす。
「あの子は、今度の引越しでどうなる?」
「……。」
 ふてくされて沈黙したままの男にユリウスが皮肉な視線のまま問いかける。

「…もしかして、知らないのか?」
「馬鹿なことを言うな!私は偉い!知らぬわけがないだろう!…ふっ…げふ…」
 興奮して強く吸い込んだ息が、肺を刺激したらしい。嫌な音を立てて咳き込む。
「…これが、芝居ならば、王宮に召抱えてやるのに」
 内心はビバルディに同意して、ユリウスは期待を押し殺しその答えを待つ。
「…お前達なぁ…人に教えを乞うにしても、もう少し!」
「乞うてなぞおらぬ。…わらわは女王じゃ。わが命に答えよ!」
 嫌そうに、それでも毅然として言い放つ。
「…私は忙しい。お前達、もう帰れ。喧嘩なんかもうするんじゃないぞ!」
 逃げたな。ユリウスはそう考えたが、幾度目かの強い眩暈にそれも飛ぶ。



「…お邪魔だったかしら」
 夢魔の嫌な計らいだ。
 ユリウスが再度目を開くと、そこには渦中の少女と、これ以上面白いことは無いとばかりに微笑む赤い外套を纏った青年が居る。
「ははっ!ユリウスって年増好きだったんだ。でも陛下が相手ってさ、どうかと思うぜ」
「え、ビバルディを攫って来たの?」
 夢魔に意識を攫われ、ビバルディとユリウスは作業机の敷物の上でもつれ合っていた。
 目のやり場に困ったアリスが、ことの仔細を確かめるようにエースの顔に視線を移す。
「…アリス。わらわにも選ぶ権利というものがある…このように無体を働かれて黙っているわらわでもないぞ」
 作業机の影でアリスの視界に入らないことをいい事に、ビバルディはユリウスの下腹部を軽く蹴り上げた。
 叫び声さえ出ないユリウスの体躯を押しのけ、するりとアリスに駆け寄る。
 アリスは、無体という言葉に反応をし、猜疑に批難、少しだけ好奇が織り交じった眼差しをユリウスに向ける。
 男同士だからだろうか、エースは少しだけ唇の両端を下げたが、この状況を楽しむことにしたようだ。
 ユリウスは屈辱的な四つん這いの体制から、何でもなかったかのようにゆっくり立ち上がり怒気を孕んだ声を絞り出す。
「…!…お前たち頭がおかしいんじゃないか!?」
「状況証拠は充分すぎるぜ。例えば…」
 友人をからかう気なぞ皆無らしい。すっとぼけた声で、現状にもっともらしい理屈を付けていく。
 みるみる、ユリウスとアリスの顔は青ざめてゆく。
「…とかさ?」
 つらつらと列挙されたそれらに、ビバルディは笑みを腹に隠し、何食わぬ顔でアリスに庇護を求めるように抱きつき、アリスはビバルディを庇いながらエースの後ろに隠れる。
 絶句したユリウスをどのように評価したかは、彼女の次の発言で容易に推察できる。
「…最低。ビバルディの名誉を汚すような真似…」
「アリス。わらわは傷物かや?」
「…わぁ。図々しいですね陛下…」
 エースは噴き出してしまうのを堪えながら、背後のやり取りに一言加える。
「…アリス、わらわを慰めておくれ?…うん。少女は柔らかくて佳い…」
 あやつの香りがしみついておるのが残念じゃ。
 少女にだけ聴こえるように、耳朶に流し込むように言葉を付け足した。

「わらわを忘れないでおくれ。お前を愛しているわらわを…」

to be continued...

web拍手レス

■なかやすみ
ちょっと賑やかに。ユリウスをイジってみたかったんですよ。
ビバ様が攻略対象な設定なうちに、ビバアリとかアリビバも足して、エスアリする。
…なんかの呪文みたい。
ちなみに、ジョカアリでジョーカー×アリスで呼称「ババアリ」を提案してみる。
リアルに他人様の、保健体育を連想するような場面に遭遇したらドン引き間違いなし。

[16/11/2009] Faceless.