お茶会の席のあの男



「私は、この男をこの肌で慰める…」

 その一言で、華やかな茶会の席は八寒地獄もかくやたる不穏な空気が瀰漫した。



 アリスは不機嫌だった。
 含羞なく、右の爪(つま)をそっと左肩に添えて、僅かに肩先に滑らせる仕種をする程度に。

 文目(あやめ)も分からぬ闇夜の茶会なぞ、好みではない。
 そもそも少女は、夜の時間帯は暖かい寝床で手足を伸ばすことをこよなく愛している。

 強引にとはいえ、屋敷の主招かれた席だ。中座する訳にもいかない。
 しかも、仮初のとはいえ、雇い主のお茶会、これは組織の枢要を彼らなりに習慣化したものだ。
 出席を断ったからといって、いきなり二心ありとはされぬであろうが…
 …慎莫に負えぬとはまさにこのことだ。



 そもそも、ことの起こりは、白兎のショットガン・マリッジ未遂事件。
 …どんなに気の利いた言い回しを選んだとしても、つまりはアリスがこの世界に無理やりご招待…拉致されたということ。


 それから、短くも無い時が過ぎた。
 最初にたどり着いた先がマフィアとも知らず、そこで最初は食客、そして、自ら望んでハウスキーパーの真似事をしている。
 給料を貰うようになってからは、自分の仕事はハウスキーパーだと胸を張りたいところであるが、如何せんこの屋敷勤めの人間は末端に至るまで、マフィアであることが前提だ。その他の生活が成り立たせるための能力も持つ、そこらのゴロツキとはちょっと違う。
 そんなアリスの今までの日常から遠すぎる非現実感のおかげか、自身の精神状態の葛藤を感じなくなる程度にまで、この状況にもアリスはどっぷり浸かっている。
 時は偉大だ。
 少女らしくない嘆息が、現状の心情そのものだ。




 この時間帯さえ気まぐれな世界は、そういうものだと受け入れた。
 夜は眠るという生活習慣は、ここでは常識ではない。ただの好尚として扱われる。

 しかして、他人の価値観を、なおざりにしても、命繋げられるものは、両の手で数えてようやく余られることのできる程しかいない。

 その彼らは役持ちと呼ばれるか、余所者と呼ばれるか、いずれかである。
 そして、少女らしからぬ発言で場の空気を凍て付かせた者は、唯一の余所者、アリスである。



「…らしいわよ。街で小耳に挟んだの」
 たっぷり間を貯めて、姿勢を起こし、アリスは自分のカップを手に取った。
 少女らしいふっくらしたラインを残す指先は、仕事をするものの手として、少し荒れている。

 艶を含んだ冗談が言える程、帽子屋屋敷に馴染んだとはいえ、悪くない育ちの少女は、あるべき姿通り、紅茶のカップを出来るだけ優雅に傾けて、三口ほど、中身を流し込んだ。
 そして、少しだけ首を臨席のエリオットに向けて傾けて、同席者へ静かな微笑みを向ける。
 姉、ロリーナの微笑みを真似て、凪いだ水面のように静かに。

「……………」
「……………」

 先程から、テーブルに「カロチン一門でござい」と居並ぶ人参菓子を、そつなく直属の上司の方に押しやっていた双子達ですら、僅かにその手を止めた。

 主の腹心の部下が熱心かつ丁寧な説明をしてくれたので、居並ぶそれらをシェフのように説明することができる。

 曰く、軽い干菓子として、人参チップスと人参の砂糖漬け、シェフ秘伝の隠し人参パウダーを共に。
 曰く、新鮮な盛り合わせとして、人参スティック、人参のディップと添え。
 曰く、紅茶のお供に、人参のジャム、仏蘭西風にコンフィチュール。
 曰く、喉越しを愉しむ、人参のジュレ、食感を愉しむ厳選三レシピから。
 曰く、デコレーションケーキ一人一ホール、口いっぱいに広がる人参の…
 ……見れば分かるよコンチキショウな人参三昧である。


 そんなオレンジ色の景色に埋もれがちな双子達ではあるが、決してアリスに怯えた訳ではない。むしろこの場の展開の興味に双眸の輝きは空に瞬く星星よりも鮮やかだ。


 兄弟で素早い情報収集と、その処理をして、要たる主の動向を伺っている。
 交互に開きだす二つの口が噤んでいられることこそが、その証であるが、双子達はそれを隠そうともしない。事実、弱みでもなく、自分達の価値を常に高く買ってくれる側に着く、子供らしい打算の結果であるのだけれど。

 一方、エリオットは、にんじんクリームで仏蘭西菓子風に飾り付けられたケーキを、屋敷の主から下賜されて感極まって食していた。
 ホールケーキだったはずのそれが、みるみる危ういバランスのカットケーキに近い形状になって、この話の最中には皿の上で崩れてしまうかと思われた。

 しかし、そんな破(すわ)とばかりのヘマを、帽子屋ファミリーの次席たる彼がするはずもなく、彼のフォークは大きな戦果を上げて、彼の大きな口の中に、言葉と共に飲み込まれていった。
 彼の愛する人参菓子を味わう喜びを…主にいつもは垂れ耳(ロップイヤー)気味のその柔らかな耳をぴんと伸ばし…全身で表現している。

「…なんだそいつら?なんだがよく分かんねぇけど、アンタを悩ますなら、殺っちゃうか?」

 エリオットは、何でも無さそうに、唇の端についた、ほんのり橙色したシャンティをぐっと親指で拭ってぺろりと舐める。

 同時に利き手で、ホルスターから愛用の銃を取り出して、撃鉄に指をかけてみせる。
 彼の銃は一見、フロントリック銃のようであるが、もっと実用的であるらしい。
 それでも、自動式にしないのは、玉詰まり(ジャム)への用心と、以前ちょっと苦い笑いをしながら話してくれたことをアリスは思い出した。

 彼の対応は、いつもどおり過ぎて、うっかりアリスは口許が緩みそうになった。
 しかし、ここで相好を崩すわけにはいかぬ。

「…馬鹿ウサギはすぐそれだ」
 柔らかな子供の唇が、不満だと突き出る。
 …察しの良い子供たちだ。自分の査定をする上司の機微を捉え、この席の会話の指向を操作することも、自分達の労働環境の向上の為ならばやってのける。

「本当に鶏頭の方がマシなひよこ頭のひよこウサギ。だから僕達の有能な働きに見合って給料上げてって言っているのにすぐ忘れるんだ」

 行儀の悪い頬杖をつく仕種さえ、そっくりそのまま、色硝子を挟んで鏡合わせにしたような二人。

「兄弟の指摘は的確だよ。僕達の休暇のことも考慮に入れられない本当に馬鹿ウサギ。だからボスに直接掛け合うのが一番だと思うんだよ、兄弟」

「…でも兄弟…この場の支配権はどうも今は…」
 遠慮なしに値踏みをする視線を、二人してアリスに投げる。

 …無償奉仕は彼らが断じて望まぬところだ。
 つまり、彼らのボスであり、この屋敷の主が何とも判断つけがたい、いつもの気だるい表情のままで一言も発せないということだ。

「…そうだね、賢い兄弟の察しは鋭いと思うよ。仕切りなおした方が効率的だと思うな」「そうだよ!折角の貴重なシーン、以前ボスが言ってた効果的な方法を実践で見られるかもしれないよ!向学心旺盛な僕らにおあつらえじゃないかな?」
「兄弟は鋭いよ!是非、僕達は後学の為に口を噤んでこの場の推移を見守るべきだよね」
「…ディー…ダム…あんた達…」
 流石に黙っていられなくなったアリスの白眼を無視して、双子達はまるで純粋な子供のような視線を、主に向ける。

「……ふぅ」
 それら、視線を受けて、アリスは肝も興も醒めたとばかりに、黄金に近い色の珍しい紅茶を、口に含んで、吐息を漏らした。

 つまらない。
 アリスはそう思った。睡魔が邪気を呼んだとはいえ、身を切るような冗談だったのに。
「何だ?アリス…」
 気遣わしげに可愛いウサギが声をかけてくる。
 仕方なしにアリスはいつもの微笑を浮かべてエリオットに「大丈夫よ」と声をかけようとしたところで、気まぐれな空は、時間帯を昼の時間帯に変えた。

「…無粋な昼がやってきてしまった…はぁ…そう気がついてしまっただけで…だるい…」
 その一言でお茶会はお開きとなった。

仕事の時間の余所者



 アリスの不機嫌は続いていた。
 結局、昼の時間帯は屋敷の主が望むように短く、夕の時間帯がその後やってきて、それはアリスの仕事の時間であった。
 女王陛下の愛する時間帯は思いもかけず長く続いて、あの美しい友人がまるで近くでアリスを遊びに誘っている気分であった。

 時折、どこからか掃除の為に開け放った窓のから、ほんのりと心擽る薔薇の香りが漂ってくるような気もした。
 一瞬だけ心穏やかになれるそれも、錯覚だと思うとアリスの心を重くした。

 それも、これも。
 アリスは調度を整えながら、この前街であったことを反芻してしまう。

 以前、帽子屋ファミリーで時計塔市街地にピクニックに出かけた時の噂は、その時だけのものでは収まらなかった。


 市井の人々の口さがない噂は、局所的に続いていたらしい。
 ちょっと路地に入った、格式張らない店ならば、目端の利く奥様方がひそひそとやりだす。
 口さがない男たちは老いも若きも、少女を値踏みするように見る。

「この前、ブラッディ・ツインズと尋常じゃない様子で歩いていたぞ、どっちの…」
「…両方一変に…」
「いや、俺は懐刀のだと思うけどな」
「いやいや、やはり…」

 アリスはそういう性根の腐った奴らに、報復の二文字が頭を過ぎったが、滞在場所がマフィアの屋敷だけに、洒落にならない事実に自重した。

 そして、噂も馬鹿に出来ないもので、アリスもささやかな胸を張って全否定できない後ろ暗さがある。

 アリスだって書物の中ならば、多少の恋愛の機微を愉しみたい方だ。
 自分自身はしばらく恋愛は御免被ると思ってはいるのだが、こういう縁ばかりは思い通りにはならない。
 自分は噂に聞くロンドンの下町の娼婦達よりだらしないのではないかと嫌悪してしまう位に、ずるずると軽い縁(えにし)を結びかけている。

 そう、噂を否定するには少しだけ疚しいところがあるのだ。

「本当に、嫌な男…」
 呟きは行動を伴ってしまっていた。少々乱暴に水を替えた花瓶を置いてしまい、壁紙に水がかかってしまった。
 慌てて清潔な布巾で水を拭うが、その壁紙の模様がいけなかった。
 普段なら気にならないが「あの男」が被っている帽子と同じ模様である。

「………―――――っ」
 アリスは思わず爪を立ててしまった。
 悪いことは続くもので、水仕事をして柔らかくなっていた彼女の爪は、壁紙に負けて爪が引っかかってしまう。
「ぁ…」
 思わず急いで手を引っ込めてしまったのも、良くなかった。
 右手の中指の白い爪先が、横方向に少し裂けてしまった。
「痛……」
 怪我というほどではないが、ちりりと深爪をしたような痛みが走る。
「…指ってどうしてこんなに怪我をすると痛いのかしら…」
 ああ、もう嫌に成る…アリスは口の中で罵詈雑言を転がし、その痛みに耐えた。

 気休めに抑えた患部の痛みに慣れて、それをよく見ようとしたところ、またも時間帯が変わった。今度もまた夜の時間帯だ。

「傷口が良く見えないじゃない…とりあえず、諦めて鋏で切っちゃうとして…ああ、先に誰かに一声かけてから…」
「それなら、私の部屋に来るといい。」
「ひっ!!!!!!」
 …そんなにも驚かなくてもいいじゃないか、と上機嫌に屋敷の主たるブラッドが背後で笑った。


「…仕事中なので」
「ならば、主の命令だ。今すぐ私の部屋に来ること」

「…と、思ったのですが、私の仕事は先の時間帯まででしたので下がらせていただきます」
「ならば、個人的にお誘いしよう。お嬢さんがそんな痛みに耐えかねている姿を私が見過ごしたとあっては、名折れだからな。嫌ならば実力行使をさせていただくが…」

 いつのまにか、屋敷中に主人の好みに合わせた灯りが燈る。

「…仰せのままに」

 アリスは抵抗が馬鹿らしくなって、ブラッドに従った。
 …断ればきっと思いつく限りの、恥ずかしい抱え方をしたまま、屋敷を練り歩き、その上部屋に連れ込まれるのだ。
 自分の足で向かった方が、一掬ほどはマシなのだ。

「…行くぞ」
 ブラッドはアリスの右手首をそっと掴むと歩き出した。

「…あなたのそういうところが、嫌よ」
  昏冥の空で良かった。
  頬が何色をしていようと、隠してくれるから。
 と、アリスは視線を伏せた。

不機嫌なアリス



 アリスは、不機嫌だった。
 内心はどうあれ、表情はきゅっと唇をすぼめて、表情は硬い。
 ブラッド=デュプレ
 気まぐれなこの男は女中を呼ぶでもなく、手馴れた調子で、執務椅子にアリスを座らせると、自分は執務机に右大腿部だけ据えて、膝を引き上げるようにして、片足を組む。
 その上にアリスの腕を引っ張り、デスクライトの下で慎重に爪を切り始めた。

 決して優しい手つきではない。ぐっとアリスの指先を圧し、傷を深くしない為にしかし、爪が寸(きだきだ)を残し、二次被害を起こさないように、容赦がない。

「…お嬢さんに上目遣いで見つめられるとは、悪くないものだ」
 視線は処置中の指先に集中させているくせに、そんなことを言う。
 だからアリスは不機嫌になる。

「情婦達は、夜離れを防ぐ為にあなたにそんなことまでするの。大変なことね。とても真似できないわ」
 アリスはぷいと横を向く。
 ブラッドはひとつ溜息をつくと、ぎゅっと傷口を強く握った。

「…った!痛いわよ!」
「必要な処置だ。…ああ、先にお嬢さんに言っておこう、今から使うこの消毒液は残念なことにとても沁みるんだ」

「…ご親切なことね」
「ああ、屋敷の主に相応しい対応だろう?」
 くすくすと上機嫌に、帽子を外したこの男が意地悪な微笑みを浮かべる。
「消毒位自分でするわ、その姿勢で使うと、あなたの服が汚れてしまいそう」
「かまわないとも」
 そうして、ブラッドはアリスに遠慮なく消毒液を含んだ綿で傷口をつつく。
「…った!いっ…っ!」
 脳天を突き抜ける痛みがアリスを苛む。

「やれやれ、言っておいただろうに…涙目になるほどとは思わなかった」
 ブラッドは腰を屈め、アリスの眦をペロリと舐めた。
「わたしはあなたの玩具じゃない!」
 その仕種にアリスは激高した。
 この顔で、アリスの心の傷を抉る男。でも違う男。

「そうさ、君は情婦にさえならない」
 ガーゼを当てて、手早く包帯を巻くとブラッドは脚を下ろした。
 掴んだままのアリスの右手首を引っ張り上げて、アリスを椅子から立たせる。
 ブラッドの足を踏んでやろうとしたが、つま先が届くがどうかのところまで肩が抜けるほど引っ張り上げられる。
「私を情婦にしたいの?マフィアのトップともあろう男がお安いことで」
 せめて視線だけは強く、男を捕らえた。
 黒みの強い虹彩は、夜を愉しむ時の色。

「…まさか、情婦だなんて自由を君に赦すはずがないだろう…私は退屈が嫌いだが、君にそんな選択の余地を与える厄介ごとは好まない性質でね」
 アリスの腰に手がまわる。ブラッドは浅く書類机に腰をかける。
 少女の唇を食らいつくように貪り始め、アリスの着ていた屋敷メイドの装束の胸元のリボンが解かれる。
 容赦ない侵入。

「…ソファやら、書架でやら、人のこと何だと思って!」
 少女はくるりと男に背を向けるが、開いた襟ぐりからブラッドの手が忍び込む。
「…もう少し、時を進めたら、その答えに辿りつくのかもしれないよ、お嬢さん。決して私の元を離れないように……お嬢さん、人の話は聞くものだよ?」
 アリスは身を小さくしてこの男の手を頑なに拒むが、篭絡も時間の問題で。

 熱に倦んだような空気が二人の呼吸を合わせては乱すころ、ブラッドはアリスを横抱きに抱いて、首筋に突っ伏した。
「…ああ、もうすぐ、舞踏会がある、君をそこに連れて行こう…君は情婦などではありえないだろう?」
 では、この爛れた現状は何だというのだ。
 非難した湛えて居ない視線をブラッドに向ける。
 そんな視線を頤ごとから娶り、ブラッドは深くアリスに口付ける。たまに弄ぶように歯を立てて。
 アリスの不機嫌は今しばらく、しばらく与え続けられるキスと共に、彼女を苛むようだ。


END


■凸野さんへの捧げ物ー[再録]
凸野さんのご厚意で再録です。ページが二つあります。凸野さん専用ページは残したまま。
他サイト様にブラアリ捧げっぱなしで再録してないの、あった気がする…(ハテ?)

ハトアリで帽子屋滞在中、ブラッド攻略中、舞踏会前の設定
恋愛成就未満の女の子のイライラを書いてみましたーおそまつさまですー
Faceless@MementMori 11/04/2010[再録日]