「…ペーター…確かに私は、欲しいものと訊かれて、本が欲しいと言ったわ」
アリスは小春凪のような体で、自身の左隣に立つ青年に語りかけた。
青年のペルル色の髪の中から、まるでナクレを掻き分けるようにして、特徴的な耳朶が飛び出した。
少女の語気に潜む冬景色は、傍に控えた女中達が、口許を強張らせるには充分な程に、冴え冴えとしている。
誰もが久しく感じていない、冬の寒気団の真っ只中に居る気分になるであろうが、青年だけは特別であるようだ。
溜息をひとつ。そしてアリスは青年を見上げる。
優しい色のシャツ、攻撃的な色彩のジャケット。
潔癖さを強調するかのような、染みひとつない手袋と、土埃(カーキ)色のパンツ。
タイには存外、可愛らしく時計があしらわれて、大きな懐中時計を斜めに引っさげている。
もっとも、頑迷な良識派からすれば、そのタイは眉を顰められてしまうだろうが、この美貌の青年には、きっと何も言えないだろう。
少女の視線を感じるまでもなく、いつでもアリスを見つめている青年は、綺麗な笑顔を向ける。
上がった口角がゆっくりと開くと、残念なことに、アリスの望まない言葉がぽんぽんと飛び出す。
「ええ、あなたは、他でもないこの僕に!僕にだけおねだりをして下さいました!」
誇らしげに、胸を張って、朗々と彼にとっての事実を謳い上げる。
少女の両の手を自身のそれで包む。
「…なっ!ば…馬鹿じゃないの!おねだりじゃないわ!ちゃんと後で代金は支払うつもりだったし…!」
アリスは取られた手を叩きつけるようにして振りほどいた。
彼女には周囲を取り囲む女中達の視線が痛い。
同僚であり、友達でもある彼女達に「ハートの城の腹黒宰相様を手玉に取る凄い女伝説」なんてものは植えつけたくない。…尤も余所者であるアリスに悪意を向けることのない彼女達は、目の前の事実にただ驚愕しているだけかもしれないが。
「私は、法律に関する軽い読み物が欲しいって言ったのよ!…王立法務図書室って…誰がこんなもん作れって言ったのよ…私にこんな沢山の本の支払いなんてできるわけないじゃない!」
少女が激高した。
忘れられがちだが、アリスは女中(メイド)の仕事と共に、時折裁判長なんて仕事もやっている。
決して片手間にこなす職務ではないのだが、この城ではデタラメな捕縛が気分次第で乱発されているのだ。
デタラメな罪状に、求刑は必ず死刑。
しかし、裁判があるだけマシ。司法権の概念を維持しているものがどれだけ存在するのであろうか?この世界の有力者たる役持ち達はしれっと口を拭うのが上手ときている。
ご他聞に漏れず、アリスがこの世界にやってくる以前は、ハートの城の裁判は全て求刑通りだった。
ある時より、この城では、少女の手に司法が委ねられるというデタラメが罷り通ってしまった。以来、デタラメな罪状には、ママゴトな判決が出ることになっている。
…本音のところ、イチイチ判決を出すことにアリスとて食傷気味である。
が、そんな素振りを見せると、麗しの女王陛下は斬首刑を愉しもうとするし、暴君を抑制すべき立場である宰相閣下は、面倒だから裁判自体を止めませんかと奇妙な方向で効率化を図ろうとする。
判例が増えるにつれ、職業意識は比較的高い方だと自負しているアリスとしては、流石にそろそろ「刑法とは何か」を考えたくなったのだ。
少女はこの城で職業意識が最も高い人物はと問われると、こっそりではあるが「王」と答える。しかし、この城で直接彼に頼るのは彼女にとって、意外と難しいことである。
先ほどの問いに次点を付けるとすれば、嫌そうな顔をして「…ペーター?」と疑問符を付けて答えを導き出す。
結果、完全に慣れたとはいえない世界で、専門書の類を探す手助けを「お城の宰相様」に頼んだ結果がこれである。
頭を抱えたくなったアリスに、青年は畳みかける。
「仕事で使うものでしょう?あなたが支払いなんてする必要はありません!」
「仕事って言ってもね…」
少女の語気には力が無い。
「聡明で高尚なあなたは、宰相位にある僕を見込んで、その愛の力量を試すかの如く…!…皆まで仰いますな、僕でも多少の苦労はしましたが、あなたの酔狂に付き合うくらい、僕にとって容易い愛の試練!これであなたに僕の愛の深さが分かっていただけるものであれば、僕は…僕は…っ!」
訳:この世界で法の書を探すのは大変なのですが、あなたを愛しているのでやりとげました。
「…うざーい」
「一撃っ!」
言う程、打ちひしがれてなぞいない宰相様である。アリスもそれを分かって、ついつい辛辣な言葉を躊躇せず使ってしまう。
「でも、それもあなたの愛情表現の一つだということを、僕は理解していますよ!照れ屋さん!…っごっ!」
公衆の面前で感極まってアリスに抱きつく狼藉を働いた結果である。
不本意ながら、この世界に留まった結果、アリスはみごとなアッパーカットを繰り出せるようになっていた。
「…お望み通り一撃…」
アリスは少しジンジンする拳を、何でもないように、ぐっと握り締めて掲げてみせる。
「…ごめんね、皆。こいつのカンチガイにつき合わせちゃって…通常業務に戻っていいわよ?」
アリスは上司であるペーターにこき使われたであろう同僚達を労う。
「然様でございますか…しかし…」
「大丈夫だから…ここはペーターと二人で片付けるから…本当にごめんね」
ペーターが集めに集めた本は、殆どが荷解きされ、書架に収納されている。
あと開いていないのは一抱え程の荷が一つとそれを目録に追加する作業だけだ。
長くかかっても、時間帯二つほどで終わる作業だ。
「…然様でございますね」
アリスの同僚達は目配せをして、一人がそっとアリスに耳打ちする。
「どうぞ、ホワイト卿とのお時間を大切になさいませね」
「…なっ!」
アリスが頬を染めるより先に、メイド達は躾の行き届いた優雅な仕種で部屋を辞した。
「どうしました、アリス?」
クスクスとメイド達の忍び笑いが耳にくすぐったい。
「アリス?アリス?顔が赤いですよ?」
「…何でもない…」
「はっ!もしかして、さっきのメイド達に何か病気を…」
「…確認するけれど…あんった本当に、悪意は無いのよね…?」
心外だという表情と共に、彼の耳が天を突いたかと思うと、しゅんと項垂れてしまう。
「…あなたに対して愛情こそあれ、悪意なんて…わかりました!もっと分かっていただけるように善処します!」
「善処って…お役人言葉だこと。精々当てになんてしないでおくわ」
少女はなるべく自然な動作で、自分にまっすく捧げられる暖かな表情を避ける。
…何だろう。胸が痛い。
ああ、この痛み。私は知っている。この前思ったことは間違いじゃなくて…
…本当に本当に…本当に私はコイツに…
「さしあたり、あなたを抱きしめるところから始めようかと思うのですが…いいですよね?」
こんな、ムードも何も無い、全てが初めての男に…
「…アリス?」
「…うっさい!」
「…アリス…」
青年は、恐々と、確かめるように、立ち尽くす少女にそっと腕を伸ばした。
「…殴らないんですね…」
「…殴られたいの?」
青年はアリスの髪に顔を埋めて一呼吸する。
「…いいえ…」
「なら、いいじゃない」
アリスは青年の背に手を回すわけでもなく、そこに佇んで受け入れるでもなく、拒絶するでもなく、ただそこに居た。
「…アリス…あなたは、日曜の午後の香りがします」
辛そうな声に、アリスの指は虚空を彷徨い、けれども、ついぞ彼の背を掴むことがなかった。
本当は大丈夫よと擦ってあげたかったけれど、それはこの白兎に嘘をつく気がしたから。
「…そう」
「…はい」
賢いウサギの声が哀愁を帯びる。
わかってしまう。それでも、彼はその切なる、拙なる願いを口に出し続ける。
「…ここに居て下さいアリス。ずっと一緒に居ましょう。…愛しています。愛しています。愛しています…」
切なげな声、耳に残る同僚の笑声。
重々しく陳列される法の書達。
熱にうかされるような白兎の声に巻かれて。
だけれども、
だけれども、
ここは「法」がありすぎて。
白兎の声に目を閉じたくても、それが赦されない。
ぼうっとアリスは口を開いた。
「…ここは駄目。法が私を見ているから」
アリスはいつしか、自分を裁く。
それを知るペーターは、ぎゅっとアリスを書き抱いた。
白兎の目の端に宿るはペルルの玉。…決して少女には見せないけれど。
それを人は…恋水(涙)と呼ぶ。
END
子子さんに捧ぐペタアリ。
■あとがき
恋水と書いて涙と読ませるのは万葉集ですよ。
厳密には間違っているのですが、その時代の洒落気。心意気を買いたく、わっちは使うのでありんす。
ちなみに、ペルルは仏語で真珠です。色彩を著すのに、こっちが妥当かと。
「万葉集なんて読むんですか?」
うん。テストに出るからねぇ…大学入試までは必要だよ?
Faceless@MementMori 20/04/2010