Side::A

***序章***

 荷駄が轡(くつわ)を掴攫まれ、通りを闊歩する。

 繋がれた、それほど大きくない二輪の荷車は、いくつかの小型の樽と、絞りたてのミルクを積んで、商売女のスカートのように悩ましげに揺れる。
 行き交う人の視線がチラチラと、些か苦笑交じりなのは、車輪は軋んだ音をまき散らすからである。…さながら、厚化粧と美食が過ぎる妓楼の女主人といった風体。

 耳障りなそれは、引いている馬ですら鬣(たてがみ)を振って主人に抗議の意を表す程度に激しい。
 伴に歩む主は老いている。時折、帽子を持ち上げ挨拶をする様がまるでカラクリ人形のようでもある。
 しかし、馬の尻に敷かれることなく、そうかと言って鞭をくれることもなく…ふと弛んだ瞼を擡(もた)げ、その皺だらけの指で馬首を掻いて機嫌を取る。すると、馬も仕方ないとばかりにその歩みを止めることなく、ぶるると短い尾を揺らし、溶岩煉瓦の街を歩みを続ける。

 大路に響く件の蹄の音が、ようやく届く、小路の入り口。
 淑女たるもの女性が一人で外を出歩くべきではない。…しかし、それはアリスの常識であり、それについてもの思うところがあった少女としては、姉の教えを常々破っていた。
 その行為に名前を付けるとすれば…悪甘いもの。幼き冒険心。
 幼い者、総てが決して無知故の命知らずではない。彼女は、きちんと選んでいた。
 彼女一人でも入りやすい、安全かつ清潔感のある、彼女らしいこの界隈を。少額の買い物は専ら、この小路で済ませている。
 古い屋敷の、中庭のような規模のそこは、小規模ながら瀟洒な店が軒を連ねている。
 広めにとった路地には寄せ植えにされた鉢がいくつか並べてあり、買い物に疲れた客を巧みにカフェへと誘っている。
 大通りとはまた違う、中流階級の女性同士が年相応に頬をゆるめて、ショーウィンドーをきらきらした目で覗いている。
 気の置けない友人同士のような、彼女たちに少し羨望交じりの視線を遣る少女が一人

 アリス。
 …常識に寛容だが、この世界では常識に縛られるリデル家の次女。
 彼女の常識は、大英帝国と共に午睡を愉しんでいる。

***本章***

「…………」
 いつものマフィン売りの男が微笑みを湛えていつもの場所に納まっている。
 まるでナーサリーライム(マザーグース)の世界だ。

「人参マフィンあります」
 品書きがやけに目につく。
 アリスの頭には、とある青年の顔が過った。
 マフィアを生業にしているだけあって、一度会ったら忘れられないような存在感があり、一度知ったら忘れられないような味覚センスの持ち主である。

 アリスとは良好な関係を構築しているのだが、これから訪問する時計塔の主とは、相容れない関係らしい。
 まったく…労働意欲が旺盛な者は根が頑固なのだろうか?

「………ぁ」
 店頭で愚にもつかないことを考え込んでしまった。
 訝しげな視線を感じ、そろりと罪な品書きから視線を逸らす。

「…それは、また今度…」
 マフィン売りの屋台の男に、愛想よく微笑みを返した。
「これと、これ。…それからこれもちょうだい」
 不摂生の権化たる相手でも、かぶりついてくれるような焼き立てのマフィンを三つばかりと、小分けにした飲み物を詰めた瓶を購入して、時計塔に急いだ。

 購入したのは、いわゆるイングリッシュマフィン。
 バターの香りが高く、食欲をそそるもの。
 ひとつは中を開いて、香草で煮込んだ肉片、野菜を挟んで貰った。決して上品な食事とは言えないが、きっと喜んでくれる。
 ソースがしみ込んでしまわないうちに。と、包みを受け取ってアリスは高楼を一気に駆け上がる。


 息を整え、一番使い込まれた樫の木の重厚な扉を、一応はノックをする。
 返事が無いことはいつものこと。
「ユリウスー入るわよー」
 どうせ、また仕事に夢中で返事どころではないのだと、半ば呆れつつ、勝手知ったる他人の家とばかりに入室する。

「………あれ?」
 ユリウスは不在だった。
 珍しいこともあるものだ。昼であろうが、夜であろうが時間帯なぞお構いなしに、四六時中作業机で時計と対話している、この時計塔の主。
 エースがハートの城に居ることと同程度に、ユリウスがこの仕事場に居ないことが珍しい。

 アリスは持ってきたものを、使用頻度の少ない可哀想な食卓に並べ、台所で皿とカトラリーを漁る。
「どうせすぐ戻ってくるだろうけれど」
 支度が終わっても戻らなければ、時計塔の最上階でも運動がてら登って、深呼吸して降りる頃には、きっと戻っている。

「………塔内に居るんだわ」
 眼の端にシンクに漬けっぱなしのカップが目に入った。
 ここの主は、几帳面。
 こうした仕事を放置し、出かけることはない。常ならば「だらしない」と水切り籠に揚げて、城の女中達よりもきびきびとカップを棚に戻す。

「……よし」
 アリスは目的の小皿を見つけられて、それを食卓に並べると、気分よく部屋を後にした。


 そしてそれは後悔へと直結する。
「…どうして、城から時計塔への並行移動は苦もないのに、時計塔内の垂直移動はこんなことになるのかしら…」
 アリスは息も絶え絶えに悪態を吐く…自分自身に対して。
 大腿の筋肉がか細い悲鳴を上げている。この階段を二往復もすれば、それが絶叫に変わる。幸いなことに断末魔はまだ聞いたことがない。


「…無駄に長いんだったわ。この時計塔の階段…」
 登る都度階段が増えているのではないか?
 そんな愚にもつかないことを考えるが、不思議なことに自分で決めたことであるとやり遂げなければならないような使命感があり、屋上に出る階段近くの時計塔の機械室に出た。

「…屋上までもう少し…」
 時計塔とは名ばかりでなく、建物自体が巨大な一つの装置でもある。


「この建築物は、市民のシンボルでもあり…この装置も市民に提供している。」
 今、アリスが手をついた柱をポンポンと叩いて説明してくれた。
「…そして、日時計にもなっているんだ。…だけれども、時間帯が不規則なこの世界で日時計なんて無意味だよな。」
 常に迷子の騎士様がそのようなことを仰っていらっしゃったことは記憶に新しい。
 親友の所有する施設を悪意もなくすっぱりと全否定することができる。
「…ユリウスが無意味って意味じゃないよ。役持ちの意味のあるカードだ」
 ちろりと流し目をくれたが、眦には色香なぞ仄かにもなく、清水のような爽やかさだけが湛えられていた。

「……はは。今ならばその意見に賛成できるかも」
 息を整えて、アリスはそんなことを想う。

 歴史などという概念がここにあるのか定かではないが、中立もしくは休戦特区であり続けるには対立勢力に一目置かれる何かがなくてはならない。宗教などの権威的なものであったり、技術力や生産力など資本の力であることもある。

 権威維持の役割を果たすのは難題である。崩れれば即、最前線となるからだ。権威を万人に分かり易く示すには、ひとつの手法として建造物が挙げられる。
 時計塔は独立の象徴でもあるのだ。


 再び歩き出したアリスの靴音が掻き消される。
 アリスが居る機関部上端は、大きな歯車と何本もの太いロープが張られ、絶対に近づくな、間違って落ちるなとしつこいくらいにユリウスに念押しされている。


 落ちたら間違いなく、挽き肉だ。骨ごと砕く、力任せの劣悪な肉屋。

「…掃除が大変だから落ちてくれるなよ…ってあなたは言っていなかったかしら?」
「……なんでお前は、こうタイミング良く現れるんだ?」
 はぁ、と殊更大きな溜息と共に、蔑んだようにアリスに言葉を継ぐ。
「一応訊くわ。何しているの?」
「…お前は訊くだけで楽でいいな…」
 ユリウスはいつものしかめつ面の後、殊更大きなため息と共にアリスに言い放った。
 常に嫌味な言い方をする役持ち。
 癇に障る言い方だが、的を射ているので、アリスも黙るしかなかった。

 短い沈黙を破ったのは、ユリウス。
「…すまないが今、手が離せない…」
「…そうでしょうね」
 状況を察するに、ユリウスの使用していた脚立が倒れたらしい。そして、咄嗟にロープの端にしがみ付いて、ユリウスはなんとか事なきを得ている。
 ぷらんと揺れる、結った髪はこのような状況にも関わらず、艶やかに揺れている。


「…すまないが今、手が離せない…」


 このような状況なのに、手を貸してとも言わない。どうしようもない強情だ。今、ユリウスが手を離したら確実に、粉砕されるだろう。…彼の手厚い庇護を受ける時計の機関部に。
 …時計に挟まれて仕事中に死ねるのならば本望だろうか?ふとそんなことがアリスの頭を過ぎるが、その可能性の低さに自己嫌悪一歩手前だ。
 命はあってこそ。
 命を粗末なものとして扱われる瞬間、視界がフラッシュしてどうしようもない閉塞感が彼女を襲う。

 ユリウスに選択肢は二つ。
 一つはリスクを覚悟して振り子の原理を応用して安全なところまで、飛び移る。
 …メリットは彼のプライドが保てるということ。デメリットは大変に危険であること。ユリウスのしがみついているロープは、元々そういう目的で張られたものでないようだ。付近には剥き出しの歯車もあり、長い上着の裾を噛んでしまいそうだ。

 二つ目は素直にアリスに、脚立をアリスに起こしてもらい、足がその天盤に着くように誘導してもらうこと。

 合理的な少女は無言で後者を選んだ。
「おいっ!……っ!」
 衣擦れの音と共に、ユリウスが恥じらうような抗議の声を上げた。
 機械油のにおいがほんのりする、硬い布地がアリスの頬に擦れる。心地よくないそれにむっとして少女も同じく声を張った。
「うるさい。黙れ!乙女か!…って今は乙女ね。問題ないじゃない」
「自問自答するな!」
 流石に暴れはしないが、こんな時でもユリウスは口さがない。
「…うるさい。黙れ。理解(わか)れ!……助けたいのよ」
 恥じらった方が負けだとばかりに、アリスは更に声を硬くした。
 アリスにも淑女らしからぬ振る舞いであることに自覚がある。羞恥心を払拭するように、今度は声のトーンを子供を窘めるように落とす。…イーディスと仲直りする時のありし日の声。

「……あなた、痩せすぎよ。不摂生しているから」
「今、この状況で言うことか?」
 助けられている状況のくせに、ユリウスは不満そうにする。
 アリスはもう一度手を離してやろうかと思うが、そんなことをしては目の前で惨劇が繰り広げられたら、寝醒めが悪い。…真っ赤なのはハートの城だけで充分だ。

「…こういう状況じゃなくちゃ聞いてくれないでしょう?」
 躊躇わず抱きついた時、意外な細さと軽さに違和感を覚えた。
 …骨ばっているが、ちゃんと暖かい。絹糸のような艶やかな髪がアリスの頬にかかる。
「…本当に女の子なんだ」
 アリスはふとそんなことを思う。ユリウスはちっちゃいから、爪先が脚立に届くかどうかだ。
 自分より背の低い、無口な女の子。無力でもなく、力仕事も難なくこなし、必要とあらばポニーテールにした髪を揺らし、工具を銃に変えて仕事をこなす。
 脚立の上を彷徨ったユリウスの爪先がようやく天板に届き、しがみ付いていたロープから慎重に腕を放す。
「…手間を取らせた…おい、放せ」
 不貞腐れつつ、頬を染めて恥じらうユリウス。じたばたとアリスの腕の中から抜け出すと、少し長い前髪をうっとおしそうに払う。
 アリスの視界で居心地悪そうに腕を組む。
「…どうした?」
 ユリウスは、いつものように眉を顰めてアリスに視線を投げる。
 天板の上に居ながら、一段下に居るアリスとほぼ同等の高さだ。
「……か…っ」
 アリスは咄嗟に口元を両手で覆う。
「か?」
「………なんでもない」
 アリスは言葉を飲み込んだ。うっかりにでも、可愛いなんて言ってはけない。ご機嫌を損ねてムクれてしまうから。
 …そうなのだ。ユリウスは「女の子」なのだ。
 誰も何も言わないが、アリスは彼を男性だと思っていたが、この時間帯のようにふらりとアリスが遊びにやってきたある日、それに気付いた。
 その事実に気付いたときには驚愕で、息の吸い方すら忘れそうになった。…ちょうど部屋に入って来たエースにそれを訴えたが「ああ、そうだな?」と何を不思議に思うことがあるのかと云わんばかりに、あの爽やかさで応じられた。
 …ああ…そういうことなんだ…
 以来納得している。
 そして密かに、この可愛らしさに心癒されている。…時計塔に顔を出す頻度が高くなったのは内緒だ。

 いいのかそれで?という自問自答はさっさと放棄した。
 この世界は彼女の常識が常識とは限らない。この世界にも常識があり、それが並び立つこともあるが、構造の大元からまるで違うこともある。
 …後者の方が、どうしても印象強くなってしまうのは、どちらの常識で過ごしてきた時間が長いかというである。
 この先なぞ、この世界の時間帯と同じ位当てにならない。…ならば楽しむ方がいい。折角こんなに可愛らしいものがあるのだから。

 ユリウスは少々愛想に欠けるところはあれど、可憐な少女の姿をしている。
 小柄な体に、鴉の濡れ羽色した髪を高い位置で一つにまとめ、背に垂らして…

 しかし、変わらず敵の多いこの世界の役持ち「時計屋」として、変わらず黙々と仕事をこなしている。
 小さくなっても敵の数は変わらず、銃で応戦したり、怪我をして帰ってきたり。小さくなっても誰も容赦をしないし、されないということだ。


 …不思議だ。
 男性の時には、その偏屈さが時々面倒に思えたこともなきしにもあらず。しかし、女の子だと思うと、全てが可愛くて仕方がない。
 むっつりした顔も、柔らかな頬が突きたくなってしまう程にすべらかだ。…とても不摂生をしているとは思えない。


「…本当にどうかしたんじゃないか?アリス」
 呼び声にアリスは我に返り、頬を染めた。脚立の上で何やっているんだかと、先に降りる。ユリウスが降りる段になり思わずアリスは手を伸ばしてしまった。
「要らん!私を何だと思っているんだ!」
 痩せた黒猫のようにアリスを威嚇する。

「…そうでした」
 アリスがユリウスという仔猫を刺激しないように、目を逸らした。
 妹イーディスも、姉ロリーナに助け起こされることは不承不承ながらも受け入れるが、アリスが手を貸そうとすると同じような反応をする。
 …対等だと思ってくれている表現の裏返し。そういうことだとそっと以前、ロリーナがアリスに耳打ちしてくれた。そう思うと微笑ましいが、当人を目の前にすると、やはり少しだけ煽られて憎たらしく思うところもあるのだ。

 大した段数もない脚立を、憮然としながら一段ずつ踏みしめるようにユリウスは降りてくる。
「……それ、さっき脚立を立てた時、挟んだんじゃないのか…?」
 指摘されて、少し指が赤くなっているのに気づいた。言われればじくじくと鈍い痛みが走る。
「見せてみろ」
「いい、大丈夫!」
 アリスは少々強引に手を払った。…こんな大したことないことで、ユリウスの心を痛めたくない。
 しかし、ユリウスは少し困ったような、悲しそうな、そんな戸惑いの表情を隠そうともしなかった。
「…そうか」
 そのまま伸ばした手を方向転換することにしたようだ。
 ユリウスは、服についてしまった汚れを払い、ポニーテールにした髪をきゅっと締めなおす。
「…か…(わいい)…」
 ぽつりとアリスの唇から声が漏れる。
「だから、さっきから一体何なのだ!」
 今度こそ、ユリウスが眉間にしわを寄せて、アリスに詰め寄る。
「……えっと…」
 下から睨み上げられても、イマイチ迫力に欠ける…アリスの頭にそんな思いが過ぎった。
「……はは…」
 ユリウスから目を逸らす為に、天井に視線を泳がせた。

 ガウン!
 …発砲音がした。
 いきなりのこと、しかも予想していなかったことで、凄まじく耳に痛い。とっさに耳を庇い、その場にしゃがみ込んだ。
 根性の無い脚立はまた倒れる。

 アリスが抗議の声を上げようとユリウスを視界に探すと、その手に銃はない。
 発砲したのは上階からやってきた誰からしい。

「…下がっていろ、アリス」
 その小さな背中にアリスを庇う。小さな舌打ちと共に呟きがその口の端から零れる。
「…階段までの退路は確保できそうにないな…」

 ガウン!ガウン!
 続いて二発の発砲音。銃口を天井に向けて打っているらしいが、火薬の量が多い殺傷能力の強い銃は建物の天井の一部を破壊するには十分な威力があるらしい。
 パラパラと破片が落ちる音がする。

「………」
 見知った姿だが、久方ぶりに見る…まるで別人のような、険しい表情で佇む、エリオット=マーチ。

「…時計屋」
 口元を覆っていたマフラーを人差し指で、ついと下げる。
 …マフィアらしい仕種。
 にい。と、ハートの女王ビバルディのように残虐に歪むでもなく、彼が崇めるマフィアの首領のように気だるげに興味のなくなったものを処分しようとするでもなく。
 …静かに、その燃えるような見事な金髪と共に彫像にでもなったかのように、ユリウスと対峙しようとしていた。

「ユリウス…」
「…安心していい、…とは断言できない。…が、お前にまで危害を加えるような相手でもない」
 ユリウスはふっと優しい顔で笑って、小さな手で自分より高い位置にあるアリスの頭を撫ぜた。
「その柱の影に行け。兆弾に気をつけろよ」
 押し出す手も優しい。
 そうして、彼はため息ひとつついて、細い体でも轟然とした態度を崩さず、コツコツと足音を響かせて、アリスの潜んだ石柱を庇うような位置取りに歩み出た。

「…脱獄者、三月ウサギ!…どうした。獄に戻る気にでもなったか?」
 皮肉な問いに、エリオットは銃弾一発で答えた。
 ユリウスの頬を掠めるように、一発。
 アリスは小さな悲鳴を何とか飲み込んだ。
「…帽子屋なんぞに身を寄せて、お前はついに口も利けなくなったか?」
「ブラッドを悪く言うな!」
 初めてエリオットが口を開いた。怒りとはいえ、感情が読み取れるそれに、アリスは少し胸を撫で下ろした。
「…やめてよ!エリオット!」
「口を出すなアリス!」
「アリス?」
 ユリウスは険しい口調をアリスに向ける。エリオットの戸惑った声が柱を回り込むようにしてアリスに届けられた。
「…アリス…あんた…こんなところに居るのか?」
 柱の陰からそっと顔を覗かせる。エリオットは少し痛そうな顔をしたが、すぐにそれを消した。
 銃口をユリウスに向けて、劇鉄を起こす。
 ジャリっと砂が擦れる音と共に半歩足を前に出し、銃を構える。
「……はぁ…」
 その重たい音と同じくらいの溜息をついて、ユリウスはポケットから工具を出し、それを銃に変えた。


その重たい音と同じくらいの溜息をついて、ユリウスはポケットから工具を出し、それを銃に変えた。


「………」
 エリオットの口元に陰惨な微笑が浮かぶ。
 気分治しのように、銃口をもう一度天井に向けて一発発射し、軽くぴょんと跳ねて、肩幅に足を開いて、銃を構えた。
 応じるように、しかし重々しくユリウスも銃口を定める。まるで、発砲を少しだけ嫌がっているかのようだ。

 ユリウスとエリオットの間にはとても距離があるように感じるが、それは体格差のせいだ。

 エリオットはこの世界の有力者たる役持ちの中で、多分最も背が高い。
 ユリウスもそれなりに身長があったのだが、今はアリスより小さい。エリオットと同じ組織たる、帽子屋ファミリーに帰属する双子の門番達とどちらが小さいだろう?…双子達はその異名を裏付けるように、常に大きな斧を構えている。その分、彼らの方が大きく見えなくもない。

 実際の二人の距離は、エリオットが大股で詰め寄れば三歩程だろう。

「お前なんてなぁ!ウチの門番共より可愛気がねーぞ!不摂生ばっかしてっからチビのまんまだし、胸も無いし…」
 …話がズレている。何しに来たんだと道を正してやりたいような、このまま、気が殺がれて帰ってくれたらいいような…柱の影でアリスは一人気を揉んだ。

「余計なお世話だ!」
 ガン!
 ユリウスは撃った。さっきの躊躇いはあっけなく吹っ飛んだらしい。
 流石のエリオットは被弾することはない。
 あの柔らかい耳を少しだけ立てた。興奮しているらしい。彼はその事実を認めないが、ウサギは熱を逃がす為に耳を立てる。

「…お前は一体何しに来たんだっ!」
 先程の緊迫した空気はどこへやら、ユリウスも顔を真っ赤にして怒鳴り返している。

「はははっ!確かにユリウスは小さいなっ!」
「エース!」
 異口同音に、ユリウスとアリスが叫んだ。
 エースは、機械室の中をどのようにしてかよじ登って現れる。重さを感じさせずに、ひょいひょいと楽しげだ。
「…よっと!…うわっ!…とと…」
 …最後の着地まで、見事に決めるが、立ち上がろうとして、自分の外套の裾を踏んで、バランスを崩す。…とても彼らしい。
「…落ちればいいのに」
 ユリウスが銃を構えたまま呟く。しかし、漲らせた緊張が少し緩んでいる。
「ははっ!親友に対して冷たいなぁ!」
 対してエースは、口元に湛えた笑みを更に深いものにする。つっとエリオットとユリウスの間に割って入る姿なぞ、薄ら寒いものさえある。
「…っ!あんたまでいたのかよ」
「うん。銃声がするから、こっちが城への近道かなと思って。…ペーターさんがまた顔なし達を殺っちゃっているのかなーって。なら止めなきゃって思ってさ」
「…お前がか?」
 ユリウスが怪訝そうな顔をする。
「うん。止めないと俺の仕事が増えるだろう?…俺の部下だし」
「ああ、成程な」
 そこ、納得するなとアリスは口を挟もうかと考えたが、口内が乾いて言葉にするのが億劫だった。

「いやーハートの城に帰ろうとしていたんだけどさ…道に迷っちゃって…30時間帯前位に帽子屋さんところの双子君達に、道を教えて貰ったんだけど…ここって、ハートの城に向かう途中の近道かなんかかな?」
「…ここは時計塔よ…エース」
 更に億劫になることを、この迷子騎士は至って元気に語る。
「ええっ!そうなのかっ?…道理でユリウスが居るわけだ…ははっ外で偶然ユリウスに会うなんて、夢魔さんがボディービルダーになる位有り得ないよなっ」
「…悪かったな…」
 別に悪くはない。どこまで卑屈なんだこいつはとアリスは呆れてユリウスを見るが、柔らかな頬を少しだけ膨らませて、嫌そうなものを見る目でエースに視線を刺している姿に毒気を抜かれてしまう。
「なぁ、俺ハートの城に行きたいんだけど…」
 エリオットが手に拳銃を握っていようが何だろうが、エースはお構い無しだ。
 にっこり。
 プリムヒルを駆け抜ける微風のように、誰もが目を細めるような笑顔でエースはエリオットに微笑んだ。

「……あー…」
 エリオットの耳が、困惑にひょこりと揺れる。
 こんな読みにくい雰囲気でさえなければ、アリスは飛びついて思う存分その感触を楽しみたいとさえ感じてしまう程、先程の動き方は魅惑的だった。
「こっち?」
 エースは壁にかけてある縄梯子を指差し、足を向ける。
「そんなわけねーだろ!」
 エリオットは慌ててエースを制止する。ホルスターに愛用の銃を手馴れた所作で素早く仕舞う。
「…待てって!こっちに階段があるだろう!」
「でも、こっちの方が真っ直ぐだ…近道じゃないのか?」
 実直そのもの。小首を傾げて、パブリックスクールで真剣に質問をする模範生徒のようですらある。
「だぁっ!…ああもう、こっちだって!なんであんたは、建物の中ですら迷うんだ!」
 防音用の樫の木の扉を開けて、階段を指し示す。…指し示すどころか、手招きして先導する。
「………」
 賑やかな声が扉の向こうに消えた。機関部のたてる軋る音のせいで、全部は聞き取れないが、エリオットが苦心しながら、エースが解かるところまで、案内をしているようだ。
「…どこまで案内する気かしらね?」
 アリスは掌が少し痛むことに気づいた。握りこみ過ぎた掌に、爪が食い込んでた。そっと開くと、点々と赤くなっていた。
「何だったんだ…」
 気が張り詰めていなければ、ユリウスの呟きは聞き流してしまったかもしれない。
「…迷子も役に立つことがあるのね…」
「まったくだ…ところでお前、何しに来たんだ?」
 こんな緊張感の後でとても恐縮だが。エースを見習って自分の主張を通すことにする。
「…提案よ。食事にしましょう。私はお茶を付き合うわ」
「後にしないか?」
「冷めてしまうわ」
 それに、咽喉が渇いた。
「…そうか。そういえば、腹は空いているな」
 そのぺたんこなおなかをそっと撫でる仕種…気を許した者にだけ見せる、少しはにかんだ微笑。
 ああ、もうどうにでもしてやりたい。巨大な歯車のかみ合う音にアリスの生唾を飲み込む音が掻き消えた。


***終章***

「冷めてしまったかしら?」
「………むぐ……そんなことはない。充分に美味いぞ」
 ユリウスには少し冷めてしまったマフィンで先に食事を摂って貰っている。豪快に齧り付いて、ほっぺたにマフィンのかけらをくっつけて。
「お前が作ったものではないから、手放しで賞賛してもいい位だ」
「何それ」
 …取ってあげたくても、ユリウスは自分で気づいて、口の端をぐいと無造作に拭う。
「冗談だ」
 アリスは勢いよく湯気を上げるケトルを湯を火からおろす。
 沸騰したそれより、少し冷ました方が珈琲が美味しくなるような気がする。
 汲んであった水は、新鮮だが少し硬い気がしたので、深入り豆を選んで挽く。
「手作りケーキだと食事にならないんだもの」
「…それが出来合いのもので済ませる理由か?」
「あなたが不摂生を直したら、またね」
 そんなことをお喋りしながら、焙煎不良やくず豆は、弾いておく。
 ゴリゴリと小気味好い音がして、珈琲挽き機(ミル)のハンドルから抵抗が少なくなる。

「…いい音だ」
 ユリウスが口を忙しく動かす合間にそのような呟きを漏らしたが、アリスは相槌を打たなかった。ユリウス自身、独り言に気づいていないだろう。

 アリスは熟(な)れた調子で、ドリッパーにフィルターを用意する。
 ユリウスの愛用の布フィルター。掃除が大変だが、これで気長に淹れる珈琲は美味しいと思う。
 トプトプと愛嬌のある音をたてて、傾けたケトルの先端から珈琲サーバに一度目のお湯を注ぐ。
 最初は、少しだけお湯を注いで、フィルターの臭いを取って、サーバーを温めて…それは捨てる。その後挽いた豆を適量セットする。
 この、ひと手間が、試験で言うなら、解答用紙に名前を書くか否か程に違ってくる。

 準備が整ったところで、適量の挽いた豆を入れ、ゆっくりとお湯を垂らし、豆を蒸らす。
 豆がふわっと広がり、注いだお湯がキラキラしたら、アリスの勝ち。絶対美味しい珈琲ができる予兆だ。
 少女の口元に笑みが浮かぶ。
 コプコプコプと知る者はには蠱惑的な音を立てて、ユリウスの作業部屋、兼住居は、香ばしい珈琲の香りに満ち始めた。
「………」
 食卓の椅子で食後の珈琲を待ち侘びて、足をぷらぷらさせていたユリウスが、椅子の背にもたれかかるようにして、深呼吸をしている。
 まるで、舞台袖の歌手のようにいい笑顔だ。
 そんなユリウスをちらちらと見ながら、ゆっくりと珈琲を淹れた。
 この部屋で珈琲を淹れるのは、ユリウスとアリスのどちらが多いかと言うと…添削をして貰いつつ、少女が淹れることが半々…いや、やや多いくらいだ。今回は高得点が期待できそうな出来だと思う。

 カップをそっと、ユリウスに差し出すと、いつもの仕種で、カップに手を伸ばす。
 一口飲んで、ユリウスが噎せる。
「…なっ…!」
 カップに注がれているのは、カフェオレだ。
「…ああっ!折角の珈琲にお前はっ!!」
「…ミルクもたまには摂るべきよ。良質で新鮮なミルクだから、さっき買っちゃった」
 いつものカップだからいつものように珈琲が入っているとは限らない。油断した方が悪いのだ。
 あなたは小さいのだから。そう心の中で付け足す。小さいあなたは怒っても怖くない。むしろ…
 アリスも腰掛けて同じものを飲む。
「一口目はブラックでゆっくり飲むのが美味いのに…」
 ユリウスが珍しく騒ぎ立て、がっくりとうな垂れる。魅惑のしっぽも一緒に元気なく揺れる。
「…カフェオレにしたって…これではミルク入れすぎだろう…味のわからないやつだな…」
 恨めしげに白濁したカップを見つめる。
「美食の国(フランス)の朝食風よ。たまにはいいでしょう?…二杯目はちゃんとブラックのまま用意してあるから」
 はぁ。
 大きなため息をついて、ユリウスはぐっとカップと見つめあう。
 微笑ましい表情を視界に焼き付けてから、アリスは自分のカップに視線を落とす。小さな水面は凪いでいる。白濁しているが、その水鏡にぼんやりと自身の姿を映し出す。
 黙々と祈りを捧げる修道士。この時計塔とルール護る為ならば武装することも厭わない。
 全部真っ白なミルクでカップを満たす程、野暮でもない。
 彼が身を潜める珈琲の色にたまには、ふわふわのミルク、母の腕(かいな)を思わせるものがあってもいいはずだ。
 きっと、母は子をずっと愛している。

「…こうやってあなたと、穏やかにまた食卓を囲みたいわ。」
「おまえはまた…そういう…無自覚な…………はぁ…」
 そして、覚悟を決めたようにぐっとカップを空ける。
 一気に飲み干して、ドンと乱暴にカップを置く。しかし、アリスはちっとも怖くない。
「…ミルクの髭ができているわよ」
 ユリウスが慌てて口を拭うのを、笑いを噛み殺してアリスは見つめた。


「…ミルクの髭ができているわよ」


Side::A::END


素敵サイトRAKAの凡さんとコラボレーション☆HAHAHA☆
…恐れ多すぎる…
凡さんのサイトはこちちら。
RAKA
挿絵の使用のご許可をもぎ取りました。凡さんはマリア様。


「メリークリスマス![2009]」って凡さんに捧げたもの。SideBは凡さんのみ公開。ユリウス可愛さのあまり、不幸フラグ満載のSideB。

凡さんから素敵挿絵をいただいちゃいました。当時旅人属性全開で、正月早々から旅を堪能していたわっちは、帰国後、この素敵絵を拝見して不整脈を起こしたらしいよ?
スーツケースに新年早々、わっちの遺体が詰まるところだった〜いや〜危なかった…
「…死因は…萌えだな…」←大昔の刑事ドラマ風
一枚目のテンパリ具合、あの状況でも悪戯仕掛けたくなる(え)
二枚目の強い視線、エリオットのマフィアの顔と対立構図が全身総毛立っちゃう
三枚目の白髭はもう何のお誘いだって…アリスも可愛えぇぇぇぇぇ…

凡さんのチビウス♀が好きすぎて、地味に布教活動をしていた。そこから、凡さんのチビウス♀独り占めがぽろっと発覚したところ「ずるーい!」とあちこちからお声を貰った。
で、今回の公開に至る。…本当にずるいよなーわっち…ニヤニヤ…
収録場所をSKにするかギャラリーにするか迷ったが、恐れ多くもギャラリーに納めてみる…
凡さんありがとうございましたー好きだー!!!
Faceless 31/03/2010