隠す雲もなく、天は皓皓と気まぐれな月を戴く。 嫦娥とそれに傅く郎女が、思わせぶりにたなびかせる引き袖のような明かりが、闇夜に潜む全てを包む。 妖精女王(ティタニア)の祝福、吐息が響く、静かな夜。 小高い丘にはフェアリーサークルができているかもしれない。月光を浴びた露草がきらきらと小さく煌めきを揺らす。 子女ならば、そのような詩情風景を抱くような夜だ。尤も、世情は、策謀とそれの実施を遂行することを優先するものであるが。 それぞれの市街地を隔てる鬱蒼とした杜を、気吹が走り、波が渝る。 変わらぬ常緑樹の香りを含んだ夜風、少し冷えるが、悪い気はしない。 聳え立つ石造りの時計塔も、澄んだ風と月光の中に、ぼぅとその姿を浮かび上がらせる。 すぅと一息吸い込むと、因業者のどんなに寄せた眉間も少しは緩むというものだ。 それでも眉根を寄せたままの男は回廊を歩き、重厚な樫の扉を開け、屋上に出た。 男は仕事の効率化の為に、流石に休息を取る必要があると考えてのことであるが、彼の嗜好品である珈琲とはまた違う岩清水のような大気を吸い込んだ。 頬を撫ぜる風を感じながら、一歩ずつ塔の展望台への道程を愉しんでいる。 ・・・だれもその表情に寛ぎを読み取ることができなくても。 眼下からの時計塔市街の仄かな灯りとの間に挟まれる。 ふと、何事からも開放されたような錯覚に陥る。 厳めしい表情が、親しい間柄のものにだけ分かるようにふと緩み、男は同時に口許からそれを滑らせてしまった。 「・・・むごきさだめ 身に天降(あも)りて 汝(なれ)と眠る のろわれの夜(よ)」
石造りの時計塔の屋上で、青年が口遊むように謡う。 始めは、自分の声に躊躇うように。続いて諦念を抱き、気分の赴くままに。 青年の名はユリウスと言う。彼は、余り喋らないのが惜しい、この宵闇に弔いの言葉を響かせるような心地よい歌声の主である。 この世界で知らぬものは居ない、葬儀屋、時計屋、中立地帯の時計塔の主でもある。 上背のある男性で、齢は一端の職人を感じる程度。 街を歩けば誰もが振り返る・・・とまではいかないが、眼を惹く容姿ではある。 高嶺の花ではなく、手を伸ばせは届くような、乙女が淡い期待を持てる範囲の美形と評される出で立ちであるが、親しみなぞ全く持てない相好という、内外相反する容貌の持ち主である。 今は、夜空と同色の上着を纏い、艶のある髪をさらりと流している。 中立地帯、時計塔とは、建国すら定かでない、この世界の定義があやふやな世界のひとつ、ハートの国の主勢力の一つである。 他者との差異を特筆すべきは、他に与せず、争わずの姿勢である。しかし、他者に無い絶対的な秩序を維持、管理する執行権力を持っている。それ はおおよそ全て彼の双肩にかかっている。 ・・・武力について、それを補わなくてはならないのが、主たる彼の目下の悩みの種である。 この国の有力者とされる名士達は、それぞれに特徴のある能力を携えて、誰が始めたとも知れない覇権争いと、この国の住人にしか理解できないゲームをしている。 基、ここの住人は全て何らかの遊興(ゲーム)の参加者を名乗る。 能力を持った名士を特に役持ちと呼ぶ。 無論、ユリウスも例外ではない。彼の役の持つ異能の能力は、彼自身が忌み嫌われる理由の一つである。 尤も、秩序と安寧を好み、矢面に立つことを好まないものにとっては無くてはならない存在でもあるのだが。 吹き上げる強風が彼の身に付ける大きな時計を揺らす。青年はそっとそれを抑えた。
昼、夕、夜と分けられるこの世界の時間帯。出鱈目に変化して、誰もそれを省みない。 現在は宵闇に包まれている。 この国の、無秩序な時間の変化を疑問に持つものはいない。 いつ、あの頬を暖める陽光に照らされるのだろう? それが現れたら、洗濯をすればいい。よく乾くだろう。 いつ、沈み往く太陽に世界が染められるのだろう? だからどうだというのだ。時間帯が変わった以外の意味があるのか? いつ、闇に浮かぶ銀灯りに街が仄かに浮かび上がるのだろう? 些細なことだ。この世界は気分次第で変わるのだ。 風に掻き消されるこの時計塔の主の歌声を拾う、青年が居た。死角に姿を隠し、その孤影を闇に埋もれさせている。 青年の名は、エース。有力者の一人、ハートの騎士。 この国の主勢力の一つ、ビバルディ率いるハートの城の軍事部門の最高責任者。・・・にもかかわらず彼は今、役通りの真紅の騎士装束の代わりに、麻 袋を仕立て直したと見紛うような、襤褸のローブを纏っている。 襤褸のローブは騎士装束より少し、彼の体を冷やす。 いつもの、騎士装束は装飾的だが、美しいだけでなく、丈夫で機能的なのだ。 仕立ても、動きやすさを重視してあり可動制限がほぼ無い。 暖かい装束は少し彼の顔を温和にし、その逆もそのように。 ただ一つ、襤褸の方が良いことがあるとすれば、酷く汚れてしまっても、織り目の粗さからすぐ乾くし、捨ててしまうにも、何の問題もないということだ。 かの華麗なる城の玉座に鎮座なさる女王陛下は、彼女の忠実な僕たるべき部下である彼が、その騎士の役割を疎かにしている、そのような背任行為をしていても酷薄な笑みで受け入れた。 本来ならば、騎士として忠誠を捧げた相手にだけその力を尽くすべきであり、傭兵などという兼業を赦されるべき存在ではない。 役持ちと呼ばれる有力者ならば、女王の命令とて、簡単に処刑されるべき存在ではないけれども、騎士を解任されて然るべきである。 しかし、かの城の女王陛下は、エースをハートの騎士から解任することは無いと宣言し、それにより罪咎を問わず、断罪の代わりに、彼の望みを叶えず、その役で彼を縛った。 苦しみを甘受するもの、そのようにあれと。
エースは自嘲の笑みを浮かべた。それを可視できるものが居たら、なんと爽やかな微笑みだろうと見惚れただろう。 薄い赭色の瞳は潤みのように美しく耀くが、暗(くらがり)でそれと判る人は居ない。 前述の通り、両人とも、この覇権を争うハートの国で言葉通り重要な役割を持っている。 ハートの国とは?と問われると、厭味を言いながら建国史の本の所在位置を教えてくれる可能性があるのがユリウスで、エースはその可能性が皆無な方だ。 ・・・全く見た目通りとは行かないものだ。 「胸のうれい ゆめに忘れん」 「・・・。」 知識では分かる、先ほどからユリウスが謡うのは、子守唄、揺籃歌と呼ばれる類だ。 「・・・どう聞いても呪詛にしか思えないんだよなぁ。」 声には出さず、エースは片膝を胸に寄せ、片手を冷たい石組みの建物に着いた。 「親にとって、子供ってそんなに憎たらしいものなのかな。」 思ったままを口に出せば、そのような言葉になるだろう。襤褸を纏った青年はそうはしなかったが、その叡智を全て思考に捧げる。 「それでも、親は揺り籠を揺らし、必死で子供を育てる。」 知識としては、それを持っているが、理解はしかねる。それがこの青年の感想だ。 大体、眠らせる為に謡うなんて、合理性に欠けるとエースは思う。 無音、無光、無刺激、それらが快適な睡眠を招くのではないか。 人格が違うのだから、当然だが、ユリウスとエースには底知れぬ溝がある。 ユリウスはハートの騎士でなくても腕が立つ、自分に従順な性格ならば、それで良いと考えようとしている。 エースはルールを運用する役持ちで、かつ、ハートの騎士以外の役割を模索するポジションが、たまたまユリウスだっただけだ。
「ユリウスも役持ちだけど、普通に腰が定まらないことがあるからなぁ・・・。」 まあ、それが愚かしくて可愛いところなのだが、とエースは思って居るが、男性に対してそれを口にすると誤解を招く。そんな言葉のあや如きで自分に絡んでくる存在は面倒なので無言で笑顔を浮かべる。 ユリウス曰く、命令。エースの解釈は友人のお願い。 時計塔の役割の主たる役割の一環として、不要になった、時計の回収業務がある。 通常の業務は「残像」と呼ばれる時計塔の使役する存在の力だけで遂行する。 エースは、残像だけでは訳あって、回収が阻害されている時計を回収する手伝いをしている。 そういう仕事は、場合により回収目的以外の時計も、回収せざるを得ない場合も出てくる。そんな時、エースは迷うことなく、ルールに基づいて回収を停滞させない。 エースが動かなければいけない場合は、残念ながら荒業が伴うのだ。 この世界のゲームの参加者には、心臓として時計が与えられている。脈拍の代わりに時を刻む音が胸部からするのだ。 その特別な時計は貸与されるもので、記憶を引き継ぐものもあるが、それは稀である。 おおよその雑多な時計は記憶と呼べるほどのものを引き継いだりしない。 だからと言って思想を持たないとは限らない。どの世界にも多数派、中立、少数派は存在し、時計即ち記憶と命は自分自身だけのものだと主張するのだ。 中でも過激派は、武装をして、貸与されている時計の回収を拒否する。時計そのものを破壊して、その個人を永遠にしようという思想を持っている。 荒業には荒業で。隠匿された時計を回収するには、犠牲が出ない理由がない。 ユリウスとエースにしてみれば、職務執行をしているだけに過ぎないのだが、その矢面に立つ身として、降りかかる火の粉は当然払う。 エースは気にしないのだが、それでもルールだからと、誰にでも見破れるような簡単な変装をする。 代えの効く襤褸のローブに、目元を覆う仮面。 騎士装束の隙無く身なりを整えた、水際立つ青年が、そのように身を窶すだけでも目隠しとしては充分な働きをしてしまう。
「祈らばや ゆらぐ星のもと」 エースは、ほんの数時間帯前、仕事を終わらせた。 目を真っ赤に憎しみで滾らせた少女が、恋人だった男の時計を抱えて、園丁の大挟みを分解し、木の棒に括りつけた、即席の鉈で切りかかってきた。 問答無用でエースはその娘を切り殺し、二つの時計を回収した。すぐ忘却してしまえる程度に日常的な風景の一つだ。 ただ、ユリウスに訊かれた。 「・・・どうして回収予定の時計以外に、もうひとつ時計があるのだ。」 相手が武装しているとはいえ、単独勢力であったので、一つで済むという希望的観測を捨てていなかったらしい。全く持って甘い。 「それ相応の結果だよ。」 珍しく記憶の糸を辿り、そのように答えたのである。 回収した時計を麻袋に入れて渡すと、ユリウスは渋面を隠さない。 洒落のつもりで、二つの時計は一緒に入れておいたのに。 仕事の多さにうんざりする訳ではなく、涙を堪えるのを隠すように苦虫を噛み潰した顔で、修理する時計を見る。 ああ、本当に世の中、面倒だ。ルールに感情は無用なのに。 そう友人をからかってやりたいが、エースはその顔を見られなくなるのが残念なので余りやりすぎない程度の揶揄で収めている。 「ま、あの『ポーズ』できている間は、時計屋はユリウス=モンレーだな。」 悪くない。 あのなんとか保っている苦虫を噛み潰したような顔で、こっちの不謹慎な笑顔に返すうちは友達ルールが適用できる。 二人は互いの性格を気に入っている。お互い見下すのにちょうどいいからだ。 互いを全て知る必要は無い。 珍しいことに、大概の時計の記憶を知る、時計屋のユリウスであるが、エースの持つ時計の歴史を知る機会は無かった。ただ、ハートの騎士の役を 持った時計としかエースを認識していないことを『エースは知っている』。その時計の記憶は現在、エースだけが持っている。
「夢のまきまきに あこがれよ み空へ・・・」 ごぅと音をさせて、興醒ましの強風が吹き上げ、唄を掻き消す。 こんな座興を聞き逃すなんて・・・俺は運が悪いとエースは嘆息し、襤褸の上から胸の音を確かめた。 「ニンフが居るなら、縊り殺してやる。」 空気を動かさないで、青年は笑った。 エースが持つ、時計。 余所者に説明をするのならば、時計とは、記憶を持つ、この世界の心臓である。 それらは修理され、また新しい命となる。 いわば、時計が存在することが、命を護ることであり、そのルールは不可侵な法である。 ハートの騎士という役割を帯びる、この時計は一度、修復不可になるまで破壊された経歴を持つ。 そう聞くと、大抵の役持ちですら驚きを隠せないだろう。その反応への対処が面倒で、エースは微笑みでそれを隠す。そもそも役持ちならばそのような俗な興味は持たないが、ゲームの一貫で陥れようとするものだって絶対に居ないとも限らない。そんな命知らずの質問が可能なのは役持ち自身か余所者位であるが、そもそも役持ちは他役に然程興味が無く、そのような質問は割り当てられることは無い。 通常、完全に破壊された時計は、廃棄されてしかるべきなのに、材料をより分け、鋳直し、不足した部品はオリジナルの設計図から材料から製法まで忠実に再現し、部品を削りだされた。 ・・・流石に製造中の記憶は途切れがちであるし、オリジナルの記憶も完全に復元された訳ではない。 躍起になって、ハートの騎士を復元したということだ。我が事なれど、無関心にエースはそう考えている。それが、個人より役が重要であるという志向を加速させる。 そこまでしなければならない程の役割なのか、エースには疑問であるが。ルールなら誰かがその役割を持たなければならないのだろう。 それにつけても、当時の時計屋はユリウス以上に陰湿だったようだ。何の目的か、そこまでしてオリジナルに忠実に時計を直したのだ。 よくもまぁ、そこまで仕事に粘着質になれるものだ。それがエースの感想である。
この世界の役持ちの時計は特別製である。 おおよそ決められた所定の時計が、継続して役を引き継ぐことになる。それが、世の倣いであるが、例外もある。 時計が修復不可能なまでに破壊された場合、継続的に育てられてきた予備の時計が、その役に就任する。 時々、以前の持ち主の記憶を引き継ぐ役無しの国民が存在するのは、その可能性が高い。時期が悪かったのだろう。役持ちとしてゲームに参加するには「そいつ」に不足があったからだ。抜きん出た時計が、役持ちとしてゲームのメインプレイヤーになる。 しかし、エースは前者とも、後者とも云えない。 時計はできるだけオリジナルを復元させ、過去のハートの騎士が持っていたであろう、知識と経験を陰湿なやり方で叩き込まれるように、溶け込まされた。 呪いの言葉のように。お前はハートの騎士であると。 中立地帯、時計塔の地下、残像たちが身を寄せ合うもっと下。もっとも、エースの方向感覚ほど当てにできないものはないが。・・・物心付いた時には、その暗闇に居た。 「不完全な役持ちを世に送り出すことはできない。」 残像の伝言。あの残像は、誰かに殺された、つまりはゲームに負けた、先代の時計屋だった可能性は高い。 ・・・それもまた、考えるだけ無駄。 ただ、その残像は女王陛下に拝謁後、空席だった爵位を継いだエースの前に姿を現さなくなった。 既にその時計は「時計屋ではない」誰か、役なしの国民のひとつなのだろう。 ひとりひとり、この世界の役無しの胸を開いて確かめればあるいは持ち主が判るかもしれないが、そんなことにエースの興味は無かった。 何故そのように時計を復元したのか?きっとそれが役割だったからだ。自分の感知しないルールがあるのだろう。 しかし、それらに興味はない。矛盾するが、これが「時計屋」に何かしらの感情を持った発端だ。
あの残像はエースが完全な騎士になるまで、文字通り暗闇の中で、幾度かその身を滅ぼすことを強いた。 だからであろうか?ユリウスよりエースが年下である。 それらもまた、騎士のみの秘密となっている。 ・・・先ほどより強い風が吹き上げる。今日はもうユリウスは謡うのを止めたらしい。 うっとうしそうに、巻き上がる髪を乱暴に押さえつけていたが、興が醒めたのか、踵を返し建物の中に戻った。 その姿を見送り、足音が消えると、エースは無意識に殺していた気配を乱暴に現し、ごろりと横になった。背にはごつごつとする感触しかしないが、冷たくて心地良い。 天球儀で見たままの星空がそこにある。 星の瞬きさえうっとうしくて、エースは目を閉じた。 目を閉じても、面影に立つのは、あの闇だ。 常に物心付く頃には、エースは文字通り暗闇に居た。 あれは、時計塔と関わる監獄とはまた違う責め苦のようなものがある。 ひたすら平坦なその世界であり、音は常に壁に届かない。自身の呼吸音さえも、闇に吸い込まれるだけ。 ただ、手元に一つ、絶えない灯りがあった。 この個体になってからの一番古い記憶と定義づけているもの。それは闇の奥から導く声だった。 男のものとも、女のものとも。老人の声とも、子供の声とも。 導かれるままに、そこで、初めて食べた小さな白パンと、乾きを満たした水。 勿論、腹は満たされない。 渇望が、全ての原動力。 闇の奥の声は、実に効率よくエースを騎士に育て上げてくれた。 凄まじい篩いにかけられて、耐えられたのは幸いと言える。
或いは毒殺、或いは惨殺・・・とにかく、知恵も体力も導きの声のお気に召さなければ、何度か若児からやり直すことになった。 時計にはその死の記憶が幾度となく刻み込まれている。 その教育を受ける義務を放棄することは赦されなかった。完全な騎士として認められれば、ここから開放されることだけは時計の記憶が教えてくれた。 騎士として、不自由の無い知識と力は実践を伴い、それらはエースの糧となった。 「・・・しかし、便利だったよな。」 母親の腹の中に居る時と多分同じなのだろう。 守られている感覚なんてものは微塵も無い。細胞が増殖して、ヒトの姿になってゆく。そこに危険は皆無とは云えない。 よしんば五体満足でこの世に生を受けても、常に命の保障なぞはない。 命があれば、それだけで全ての運を使い切る程に幸運。 その証拠に、エースの時計は騎士になってからは死の体験を新たに記憶していない。 闇の中で、育ちきらなかった体を育てた。記憶と感覚のズレを補正し、新しい知識と知恵を実学で学んだ。 全て、闇の中で教育の機会が与えられ、時には"扉の向こう"が与えられた。 勿論、爵位を持つ騎士としての教育も受けた。その中に全てを闇に隠す術もあった。絶対に誰にも気取られない自信がある。 ・・・騎士になる為以上の知識と経験を持つことを強要されたのも、今となってはそういうことだと判る。 他の役持ちと比較して、抜きん出て「強い」のには理由があるのだ。 「でも、ハートの騎士の役は俺でもう完成されたのだから。」 俺はハートの騎士以上にならないと、このまま惰性で生きるのもつまらない。 育った環境の影響か、よく迷子になるのは生きる救いの一つだ。騎士以上の存在になるというのは、簡単に達成できない目標らしい。
あの鼻を抓まれてもわからないような闇は、方向感覚を失わせるには絶好の場所だった。また、教育の副産物と言うべきか、どのように歩けば目的地に辿り着けるかなんて回答は一つではないとエースは考えている。 クリティカル、エレガントな回答もあるだろう。しかし、力技である「エレファント(力技)」な回答だって悪くない。 しかし、ハートの騎士を拝命しても、常に刺客から狙われ、あちこちに罠が張られる。 潔癖症な同僚からの、プレゼントであったり、対抗勢力だったり贈り主は様々。 それらも、ぬるい日常に瑣末なアトラクションはあっても、楽しいとエースは考えている。 それよりも、段差や、物に溢れる環境での生活の方が、エースを疲弊させる。 転ばないということが、意外とエースには難しいのだが、転ばないものの方が多数派の事実には驚嘆している。・・・誰も信じてはくれないが。 それについては、自分は運が悪いのかもしれない。であるからして、ちゃんとそのように申告する。 「俺はツイてない。」 うっかり転ぶのは、決して本意ではないのだ。考えることが山ほどあるのだ、皆のように真っ直ぐ歩いている暇なんてないだけだ。真っ直ぐ歩いても、何かを引っ掛けたりしてしまう、何かと関わるのは面倒だ。 そもそも、暗闇はいつもふわふわして、転ぶという概念が無かったのだ。 刺激をくれる相手は好きだ。 余所者は面白い。刺激そのものだ。 ユリウスも面白い。自分を従えようとする身の程知らず。 女王陛下も嫌いじゃない。誰より卓越した能力を持っているくせに、やはり上流階級しか知らない、根底は脆い女。 凡庸な支配者で、一筋縄ではいかない闇を抱えた王も、それに口を噤んでよいと思える程度に働き者だ。 宰相殿も、容姿に似つかわしくなく世事に煩う。
「本当に、ぬるい環境。」 自嘲めいた笑み。 女王陛下に役を辞することは無碍にされたとはいえ、こうして時計塔が拒否しない限り、エースは放浪して次を求めることができる。 だから、選択の余地のない可哀想なユリウスが気に入っている。 可哀想なユリウス。なんて人望が無いのだろう。惨めだ。役持ちの能力に対して、器が伴っていない。 その惨めさがとてもエースには可愛らしくて仕方が無い。 そう思えるのは、ユリウスが時計屋だからだろうか? 一陣の風がエースを包む。ふわり、エースのローブの隙間を通る。 「・・・やっぱり俺ってツイてないぜ。」 ユリウスの子守唄を聞き逃した。からかってやるつもりだったのに。・・・そして、石造りの楼閣は体温を徐々に奪ってゆく。 「冷えてきた。」 やはり、先ずは着替えるべきだなとエースは手近な扉に飛び込んだ。 エースはうっすらと夜露が降り始めた石畳の滑りやすさを考慮していなかった。一歩目は姿勢を保ったが、敷居に躓(つまづ)き、盛大に転んだ。 飾り取っ手に負荷がかかり、やはり盛大に破壊音が月夜高く鳴り響く。 「あ。」 屋上の出入り口から直線状に繋がる階段から、転げ落ちる。 受身を取るのが面倒だなと落ちながら思案する。 「・・・あれ?」 ちょっとだけクッションが。 「・・・っ!!!」 クッションの別名は、ユリウス。怒りと痛みに身を打ち震わせている。振って湧いた不幸なのに気を失わないのは流石の役持ちだ。そして、命を狙われ慣れた、打たれ強さがある。 「除(の)け!エース!」 ははははは。どうしたものか。やだなぁユリウスってば、銃まで持ち出して。 両手で突き飛ばしやがったよ、コイツ。 「むごきさだめ〜♪」 友達に対して酷いなぁ、ちょっとからかっただけなのに撃ってきた。
to be continued...
■中休み
最初はずどーんと重たい話から・・・続き物の一話目です。
割と丁寧に作ってあるので、軽妙な読み口ではありませんが、笑いは省きません。
媒体がWebなのに、これだけ長いのもどうかと思わなくもないですが、広いお心で赦して下さいませ。
[17/10/2009] Faceless.