無垢というには、斜に構えた余所者の女の子。 頑なだけれども、それでも愛に飢えた眼を隠せないでいる。 蜂蜜色の髪、碧の瞳は少し妖精に愛された色が入っていて、その瞳に宿った妖精は、彼女に少しだけ魔法をかけている。 彼女は気付いていない。その瞳に少し靄(もや)がかかっているときがあることを。この曇りの原因を、この世界の有力者ならば全員が識っている。 時々、その靄が薄くなり、何かに葛藤していることも。 彼女は「余所者」。 役持ちの一人、宰相殿ことペーター=ホワイト卿に連れてこられた少女だ。 「何っていうんだっけ、こういうの・・・。」 赤い外套を纏った青年が、作業の手元を止めないで、呟く。 彼が気が向いた時にだけ、張る罠。それは仕掛けた主の趣向による。 「Changeling(妖精の取替え子)?何かしっくり来ないなぁ・・・。」 彼女はどちらかといえば、懐柔という言葉と縁遠い。妖精の取替え子だとしたら、自分にとって利点の多い選択を思考するだろう。 たったひとつの想いしか心に留められないのが妖精に似ているが、そんなことを言ったら彼女は激怒するだろう。 「・・・これで、良し。さて次。」 彼の罠は、どんなに陰湿な罠でも、恨まれたりはしない。だって恨まれるような罠ならば、相手は確実に獲麟の時だから。 愚鈍な騎士を自称する彼は、ともすれば、仕掛けたことを失念して、危うく自損しそうになったことがある。一所に留まることが少ないエースとしては、一番避けなければならないことだ。・・・よって即効性のある罠が彼の好み。
「Ring a Ring of Roses.(死神の口づけ、薔薇色のおでき。) A pocket full of Posies.(怯えるものの証を知りたくば、ポケットの中はを見よ!業突く張りにも、はち切れんばかりの薬草でいっぱいだ。)」 働きながら、謡うなんて。 まるで、労働者階級ではないか。 ともすれば、育ちが疑われる。しかし、余所者は愛される存在。 この苛厳たる、女王陛下にお仕えする誇り高き女性達・・・沈魚落雁 閉月羞花の呼声に恥じぬビバルディ陛下にお仕えする矜持心を、そのお仕着せに糊を効かせたエプロンのごとく下女の隅々まで行き渡らせている。いつもは相好を崩すことも無い彼女達と、楽しそうに仕事をしている。 「A-tishoo! A-tishoo!(ハックション!おお、誰も祝福をくれやしない!我に、悪魔が入ってしまったよ!) We all fall down.(祝福しようにも、みんな、みーんな死んじゃったんだもの。あはははは。)」 ・・・喩え、それが黒死病(ペスト)の歌だとしても、好意的に受け止めてしまう。 彼女は働く。城のメイドのごとく。 決して役無しのメイドになれる訳ではないのに。 この、ハートの城のメイド達は延々と無くなることのない仕事を繰り返している。 メイド達に混じって、異質なもの。であるのに、それでも彼女は雰囲気を溶け込ませる。 最初は無理をして、でも今はそういうものだと周囲に全てそのように受け止めている。 都合よく、邪魔者達が先に部屋を出てきた。最後に部屋を出るつもりだったらしいアリスの肩をそっと抱いて部屋に引き戻し、後ろ手に鍵を閉めた。
メイド達の静々とした足音は遠ざかってゆく。行く先などには興味もないが、妥当な考えが落ち着くところは、女中の控え室に戻るという結果だ。 堅牢な構造と相反する、赤を基調としたハートの女王陛下の居城。 城主の心情そのもののような、はっきりした色使い。威厳を示す広大な庭園には常に真紅の薔薇が咲き乱れ、天井高く訪れる者を圧倒する全ての部屋。 ・・・それらはエースにとって何ら特徴のないものである。城に与えられた自分の居室や執務室ですら、記憶の端に引っかかる程度ものだ。 この部屋は、客間の一つだ。残念ながら自分の部屋ではない。 アリスは体を硬直させている。瞬きも忘れているのではないだろうか? 悲鳴を上げるような少女ではないが、毎度の瞠目(どうもく)は迎合(げいごう)しないらしい。 言外に色々と飲み込んでいるのが分かる。それがとても可愛らしい。 別に、こうやって態々(わざわざ)彼女の勘気を蒙(こうむ)る必要は無いのだが、そうせずには居られない。 「・・・アリス。」 殊更(ことさら)、耳元で囁くように。いつもより、低い声で。 自制なぞ、拷問の訓練を受けていなければできないだろう。彼女も勿論そんな経験はない。素直にびくりと反応を返す。 とっさに、彼女は、自身を抑制している腕を振りほどこうと手をかけた。 微動もしないその腕を、しばしの押し問答のようにする。 ・・・諦めたのか、手にしたファブリックを取り落とさないことを優先したのか、その力が緩んだ。顔色から察するに、アリスはめまぐるしく考えを廻らせているようだ。 くつくつと喉の奥でエースは嗤う。 それに気付いたのか、アリスは抗議の声をあげようとしたが、エースが彼女の口を掌で覆った。それだけで、彼女は自分の行動を躊躇う。なんて臆病なのだろう。彼女の少し開いた唇に、エースはわざと中指を押し込んだ。 噛めるものならば。 報復を恐れないのならば。どうぞ?
爵位、いや、役持ちという有力者に相応しい格式張ったグレーの手袋をエースは愛用している。彼女がそのようにするには、躊躇う程度に価値のあるものだ。 彼女の喉が鳴った。 「・・・。」 ややしてアリスは、抵抗するのは無駄だといわんばかりに体を弛緩させ、降参のポーズを取る。 信用といえば、過分に好意的な解釈である。 邪険にするような視線を完全には隠さない。それは彼女のポーズ。 その表情を見せてくれた対価として、羽交い絞めにしている相手の急所は、足の甲だよと教えてあげてもいい。 ハートの城の対抗勢力、帽子屋ファミリーの愛弟子もどき。双子のディーとダムに見習わせたい程従順な姿勢。・・・従順な双子なんてきっと殺してしまうけれど。 甘え方の分からない少女。薔薇色に染めた頬を隠すべく、友人の偏屈君と同じような顔をする。それがとても愛らしく感じる。 友人の姿も重ねて、できるだけ、優しく呼んだ。 「アリス。」 少女は口にすべき言葉を迷っているようだ。 唇を舌で湿し、拘束を緩め、背後から抱きしめ直し、再度、その名の持ち主だけを呼ぶ。 「アリス。」 「・・・何時間帯ぶりかしらね?」 ようやく口を開いたと思ったら、搾り出したのはそんなこと。まったく、頬を抓ってやりたい位、可愛らしい言葉だ。エースの微笑みに自分の失言に気付いた彼女は、ぷいと横を向く。耳まで咲かせたその薔薇色を隠し忘れている。 「待たせた?」 ぐっと引き寄せると、彼女は溜息を漏らす。 「いいえ。今回はそれほどでもないわ。それよりも・・・」 「それよりも、逢えて嬉しい?」 「そうじゃなくて・・・。」 彼女の云わんとすることは、分かる。ルームメイクの手伝いはこの部屋で最後のはずであるが、その手の中のものを片付けてしまいたいのだろう。
「だーめ。・・・俺を、待っていたんだろう?」 「・・・っ!」 上腕に意志を込める。・・・本当は、そのような些事、彼女がどうしようと構わないのだけれども戯弄(ざろう)せずにはいられない。 「ははははは。」 タブリエドレスのウエストを引くと反射的に身動ぎをした。 エースが城に戻ったとなれば、彼にしかできない溜まった決済が待っている。そして、友人からの招聘もいつ入るか分からない。 勿論、諦めの悪い愛すべき同僚や、茶々を入れたがる女王陛下の顔が浮かぶ。 恋人との蜜月を惜しむ気持ちは大切にしなければならない。 より怱忙の日々を送る相手に合わせるべきではないのか。 なのに、アリスは聞き分けのない子供を見るような眼で、エースを見る。 そこに若干の安堵の色が入っていることを見逃すエースではないのであるが。 あれは、完全に凝固しているのだろうか? 彼女のポケットに入っているであろう『彼女の憂いを封じた瓶』の封となっているのは自分との絆。 「・・・理不尽だわ。」 「君のせいだよ。」 やるせない気持ちは本物。頭にキスをあげる。 「甘すぎるわ。どの口がそんな睦言を吐くのかしら。」 「君が、俺に、辛すぎるんだよ。」 「・・・。」 招き入れる罠、誘導する道を作って招き入れる。
手にかけた、それを剥ぎ取る。アリスが一歩退くと、エースが一歩間合いを詰める。 戸惑う少女は頬を引きつらせるが、抵抗を諦めている。 「・・・素直だね。」 「我儘に振舞ったって、悲しそうに俯いたって、そこに何か得るものはあるの?」 そう言いながら、挑戦的な眼差しを向けてくる。小首をかしげて、実に憎たらしい言葉を続ける。 「それとも、そういう女の子がお好みなの?」 だったら、他所を当たってちょうだい。つんと澄ますポーズを取る。若干の揺らぎと共に。 ああ、これだ。 「・・・イイね。」 「答えになっていない!・・・こら、笑ってごまかすな!」 まどろっこしい。ひょいと抱えると、ちゃんと慣れた所作で、しがみ付いてくる。 「それが答えだろ?」 「あなたなんて・・・!」 続きは言えないらしい。本当に自意識過剰にならない、稀有な性格だ。 言葉を促すつもりで、笑顔を向けると、往生際悪く、視線を逸らして何やら、もごもごと呟いた。 「・・・重たくなったなんて言わないでよ。」 「重たくなるようなことしているんだ?」 即ち、女王陛下のお茶会への頻繁な参加を意味する。過って毒を盛らない為に宰相殿は要らぬ気苦労が増えたことだろう。 ああ、そうかだから刺客が増えたのか。・・・今度からかってやろう。ははははは。 「尚更、君には運動が必要だと俺は、思うぜ。」 「・・・月並みな台詞。」 「運動内容は月並みじゃないよ。俺は騎士だしね。」 「随分な騎士様ね・・・。」 「ははっ!酷いな。君が望むなら、軍事部門の責任者らしいコト。してあげようか?」 少女はこくりと喉を鳴らす。どんなに頑張って背伸びをしても、まだそんなものだ。
広い客室、寝台に向かって殊更大股に五歩程歩み寄ったところで、背中をトントンと叩かれる。 「うん?」 降ろしてという合図。少女はするりと降り立つと、エースの両手首の隙間から、手袋と手の甲の間に、彼女自身の指を滑り込ませて、両の手袋を剥ぎ取る。 「本当のあなたに触れられない。」 戦利品を両手に、くるりと一回転してみせる。ふわりとスカートが翻り、蜂蜜色の髪が彼女の顔を彩る。 エースが顔を綻ばせるには充分な戯れだった。累加も効果的だった。 「・・・おかえりなさい。」 やられた。 頬を染めてそんな言葉を返されたら。・・・また、ここに帰って来ずにはいられない。 「・・・。」 外套のポケットから、少し萎れた花を取り出す。 跪いて、片手を胸に、もう片手には白い花。それでも嬉しそうに彼女は両手で包み込むように受け取った。 照れたように、すぐ背中を向けてしまう。 「気障。」 「俺は、騎士だからね。」 何かに気がついたように、振り返る。勘の悪くない娘だ。 エースは右腕を前にそっと出した。 妖精に愛された瞳が、躊躇いに揺れる。それも一瞬のことで、あたかも妖精にフォゾン(養分)の抜かれたような 花を髪に挿し、左手に手袋を揃えて掴み、駆け寄って来る。 残念ながら歯型はつかなかった。少女を望んだ頭で、もう違うことを考える。 「・・・迷路にはまり込んだみたい。アリアドネが助けてくれるかしら。」 そんなエースを知ってか知らずか、少女が言い訳じみた言葉を紡ぐ。エースが怪訝な顔を向けると、アリスは気 がついたように付け足した。 「私の世界の物語よ。異国の話。ホメロスの叙事詩と呼ばれるものに、迷宮の話があるの。アドリアネという女性が、二度と出られないと言われた迷宮から出る術を授けられるの。」 「それって、少なくとも、その迷宮から出る術ってちょっと考えたら分かることだったってことじゃないのか?」 面食らったような顔。現実主義者を気取っていても、やはり未熟な少女だ。
「で、どんな話なんだ?教えてくれよ、アリス。」 「あなた、つい今しがた、根本から全否定した物語が聞きたいの?」 変人。雄弁な視線が無遠慮に向けられる。 「教えてくれよ、アリス。」 寝台で。 再三に渡って、教えを請うたのに、そう囁くと、顔を赤らめて、強く手を引っ張った。行く先がソファーなのは残念至極である。 不承不承という表情を何とか作って、ソファーに押し倒そうとするエースに何か喚いた。 「ちゃんと聴きなさいよっ!」 怒る顔が可愛いので、少し尊大な作法でソファーに修まるエースに向かって、彼女は訥々と話を始めた。 「・・・。」 アリスは語り聞かせながら、備え付けの水差しで二人分のグラスにそれを注ぐ。 「・・・私の部屋なら、お茶くらい淹れてあげられるのに。」 話の合間に、唇をそれで湿す。 「侍女を呼べばいいんだよ。今じゃないけどね。」 今は、この部屋から出すつもりはない。そして、誰も入れるつもりはない。 話を終えた彼女は、気取ってスカートの裾を抓んで、宮廷歌人のように一例した。 巧く話せたかどうか、採点を待つ生徒のような顔を押し殺しつつ、ませた仕種を見せる様が可愛くて、エースは 腰掛けたその膝の上に彼女を抱き上げた。 啄ばむようなキス。 掌で頬を包み、首筋を辿り、肩から腕にかけてラインを確かめるように辿る。 その決して立派とは言えない胸にエースは頬を埋め、音を聞く。 トクン。トクン。 この世界に二つとない音。気取られないうちに、彼女の服のボタンに手をかける。 悪さをする手に気付くと、彼女は身じろぎをするが、戸惑いながらもエースの頭部を抱きしめる。 ああ、確かに手袋の上からでは分からない感触。 もっと近くに、もっと中まで侵蝕して。腐って堕ちて。
to be continued...
■中休み
最初はずどーんと重たい話だったので、暗めイチャイチャの二話目です。
もうちょっとエロしようかと思ったのですが・・・
サイショカラ=トバシテーモ=ドーカナ=ト=オモッテ
(イタリアの大衆食堂の亭主 1603-1633 偉業とか特になし)
と、自主規制。
ハトアリもクロアリもご存知無い方が読むとも思えないのですが、一応想定だけして書いています。
・・・が、ご存知の方向けの笑いは省きません。
相変わらず媒体がWebなのに、これだけ長いのもどうかと思わなくもないですが、広いお心で赦して下さいませ。
[19/10/2009] Faceless.