第四章



 カチカチ、キリキリ。カチ、キリキリ。
 精密な工具で、これまた精密な時計を組む。オーバーホール途中の光景。
 悪条件でも狂い無く動かす為に、寒冷地の鱒の脂を使うのだとユリウスが教えてくれた。氷の張った湖の下でも、身体の脂が固まることのない鱒に着目した職人の存在にアリスは感嘆した。
 	
 その時、ぶっきらぼうに「少しは常識をわきまえろ」と書架にあった時計に関する軽い読み物を貸してくれた。口は少々悪いが、根暗で他人の評価を存外気にする彼である。今日は本を返却がてらお礼に伺ったところである。
 
 カチカチ、コツコツ、キリ、キリリ。
 実に心地よいメトロノームのように規則正しい音だ。そうだ、このリズムはあの歌に実に酷似している。
 
「…London Bridge is falling down.
 Falling down. Falling down.
 London Bridge is falling down.
 My fair lady….」

「・・・お前も、あの女のようだな。」
 ユリウスが作業の手を止めて、アリスの方を見た。
 作業が一区切りつくまで待っていたのに、ついつい謳い出してしまった。先ほどの時計塔の広場で、子供たちが楽しげに歌っていたので思わず。・・・足までばたつかせてしまった。
 
 我ながら子供っぽい。こんな姿を姉、ロリーナに見つかったら「お転婆な足は、淑女に相応しくないから、切ってしまいましょうか?」そう言って諌められてしまうだろう。
 
 淑女でありたいわけでもないが、あばずれになりたいわけでもない。相手に不愉快な思いをさせるのも不本意で、自分がされたら最悪だと思う。
 故に、わざとらしくない程度に、ゆっくり。その仕種を治めた。
 
「邪魔をしてしまったかしら。」
 申し訳なく思い、相手を伺う。気難しい友人は何も応えず。作業の終了の合図のように工具を置き、作業椅子にもたれ掛かって眼鏡を外す。目頭を押さえる彼の仕種は気難しさを際立たせる。

		



 時計塔の無愛想な友人の横顔、彼の職場兼、自宅を訪問するには、追い払われない程度に互いに理由が必要だ。
 ちゃんと本のお礼に、手土産を持参した。労働をする者が好むような、しっかり腹に溜まる軽食を差し入れに持って。

「・・・。」
 いつもなら、慣れた手付きで組みあがってゆく時計を黙って眺めているのだが、我ながらどうしたことだろうか。
 仏頂面の友人の作業の手を止めさせてしまう程度には奇異なことだったらしい。
 羞恥に少しだけ頬が上気する。


「まぁいい。パンが乾いてしまう前に、いただくとしよう。」
 溜息の多い男は、こちらの好みなぞ訊くこともなく、珈琲を淹れ始めた。尤もこうした「お構い」があるだけ、随分と優遇されているのだが。
 アリスも勝手に作業場内にクロスもかけられず無骨に置かれた、大きくは無い食卓に着いた。備え付けの椅子は勿論、木材を削りだしたもので、クッションなどという気の利いたものなぞありはしないが、その垢光する使い込まれた感じはアリスのお気に入りだった。
 
 無骨なマグカップに、良い香りと共に注がれる音がする。
 
 部屋に香りが満ちる頃には、ユリウスは厚切りにしたハムとチーズの挟まれたバゲットに齧りついていた。
「・・・どうした?」
「何でもないわ。」
 そんな、野趣のある食事の仕方をするとは思わなかったから、少し面食らった。・・・と、正直に申告することもあるまい。
 なるほど、エースと友人付き合いをするだけの度量があることが納得できる。

「・・・良い材料を使い、手間を惜しんでいない。このハムも旨いぞ。」
 稚拙な気遣いにアリスの顔はついつい綻ぶ。ユリウスは何を誤解したのか、少しうろたえて言葉を足す。
「小麦もちゃんと香りの良いものを使っている。焼いてそれほど時間帯が経ったものでもないのだろう。いい仕事だ。」
 良いものを持ってきてくれた。そう呟くと躊躇いがちに、手を伸ばして頭を撫ぜてくれる。アリスはその稚拙な気遣いを、目を細めて受け入れた。

			



「・・・ありがとう、この珈琲もとても美味しいわ。」
 お世辞ではないことを示す為に、アリスは珈琲に口をつけた。ふと、あの女とは?をアリスは聞き返すタイミングを逃してしまったことに気がついた。
 
 雰囲気を察しようと、盗み見ると、優しい空気を一蹴するように「ふん」とそっぽを向き、バケットサンドを頬張る。丈夫そうな歯で、バターの香り高いパンを噛み千切る。
 ・・・今は時機違いらしい。
 

「この塔は」
 珈琲から立ち上る、香気と湯気を愉しんでいると、ユリウスが話し始めた。聞き返すことはこの男の眉間の皺を深くさせるだけだ。

 アリスは頷いて、話の続きを促した。
「『石と煉瓦』でできているからな。崩れるかもしれないな。」
 この男は何か物申さねば気が済まないのか。アリスは溜息を押し殺して答えた。

「鋼と鉄で作っても、壊れる時も壊される時もあるのよ。」
 有名な遊び歌の一節だ。橋をつくっては理由をつけて壊す。あの歌には確か曰くがあった・・・目を伏せて、逡巡するアリスと同じような顔をしたユリウスがふと思い出したように言葉を繋げた。

「・・・そういえば、この前、エースに扉を一枚壊された。」
「な、なんでそんな話をするのよ。」
 不覚。動揺してしまった。ここは、何故壊されたかを訊くべきだ。
 ユリウスは侮蔑するように、ちらりとアリスを見た。下世話な視線でなかったことが、アリスにとっての救いとなった。

「あれは、何故、壊さずにいられないのだ・・・」
 もはや独り言のように呟く。
「・・・消化に悪いわよ。次に壊れるのは、あなたの胃袋かもしれないわ。」
「そうだな。噂をすれば影(Talk of the devil and he will appear)と言うからな。この話題は適切ではない。」
 ユリウスは飛ばしかけていた集中を、皮肉な笑みで再び手元に戻した。

		



 騎士を指して、不敵な物言いだとアリスは思うが、黙って手中のマグカップに意識を移す。
 小気味よくパンに齧りつく音が心地よい。寛ぎが微睡(まどろ)みに変わってしまいそうなほど穏やかな時間だ。
 
 
 しかし、静寂は破られるもの。
 首筋への突然のキス。目の前の光景に、凍りついたように男の咀嚼が止まる。遅れて少女の悲鳴。
 二人の声が一人の男の名を叫ぶ。
「エース!」
 それぞれの呼声に名前の主は、返事をしようとして、まず、背後の間仕切りになっていた衝立を倒し、それを起こそうとしてしゃがみ込んだ。しかし、剣の鞘を、作りつけの本棚に引っ掛け、棚板を盛大に持ち上げ、参考資料を傾(なだ)れ落した。
 咄嗟(とっさ)にそれらを食い止めようとして手を伸ばし、二次的に本棚の隣の棚に足がもつれたのか、体当たりをかまし、棚の上に収納してあった、古い図面を丸めて入れていた箱が壁にぶつかって跳ね返り落下してきた。その箱を頭で受け止めて蓋が開く。
 
 ぽこん、ぽこぽこぽこと間抜けな音がして、辺りに貴重なものであろう図面が散らばる。
 
「あ。」
 ユリウス、エース、アリスが異口同音にその口を揃えた。

「待て!エース動くな!」
 きっと重要な資料なのだろう。悲鳴にも似た命令を、歩く災害に向けて放った。踏まれでもしてはと真っ青になって、ユリウスが拾い集める。

 アリスにパンと珈琲を渡して、顎で退避場所を示す。
 顎で指示されたことに、むっとしながらも、テーブルに手渡された飲食物を避難させる。ユリウスを手伝って、無残に散らかったエースの周囲を片付け始めた。

 紙の周囲が少し変色し、インクの色も変わっているそれは、いったいどれくらいの年月ここに保管されていたのだろう。

		



「まったくお前は・・・」
 ぶつぶつと文句を言いながら、ユリウスは図面を一つ一つ抱える。
「あはは、ごめんって。手伝・・・」
「動くな!」
 ・・・この様子では図面を跨いだだけで、叱責が飛びそうだ。アリスは慎重にユリウスの傍に図面が納められていた箱を押しやり、同じように集め始めた。


「俺、仲間はずれは好きじゃないんだけれど・・・。」
「・・・この中心にはあなたが居るのよ。他人事じゃないのだけれど。・・・三人でお片付けゲームの最中よね。」
 アリスが思わず返事をすると。仔犬のような満足そうな瞳で見つめ返された。
 ユリウスはむっつりと少女の冗談を沈黙で対する。


「すっかり、珈琲が冷めてしまった・・・。」
 それに、埃も入ったかもしれない。嫌そうに顔を顰めるユリウスはまだ文句が言い足りないらしい。
 先ほど、一通り二人がかりで唐突に湧いた赤いコートの歩く厄災男を一通り詰ると、彼の言い分はこうだ。

「二人して、陽だまりの老夫婦みたいだったからさ。」
 神妙に小言を聞いていたかと思ったのに、ちっとも応えていないらしい、エースは和和(にこにこ)と軽快に無駄口を叩く。
「このまま精神的老衰でぽっくりお迎えでも来るんじゃないかと思って。」
 軽妙で爽やか、可愛らしく。怒る方が奸物であるかの如く、第三者の目には映るだろう。

「・・・私達を想像で殺して愉しい?」
「その可能性は無いことをお前なら知っているだろう。」
 アリスのしっとりした視線を軽く避わし、ユリウスのじっとりしたそれも同じようにあしらう。

「ひどいなぁ。」
「どっちが。」
「・・・。」
 口数で勝負を仕掛けても、無駄だ。そうやって、こちらの話しなぞ聴いてくれはしないのだ。
 ユリウスはエースとの付き合いが長い分、彼への対応を無難にこなす能力に長けている。・・・正直に言えば、嫉妬している。

		



「で、どこをどう迷って、時計塔に戻って来た?」
 律儀なことだ、皮肉も込めてユリウスはエースに今更な質問を投げるらしい。

「えー?・・・八十時間帯くらい前、帽子屋さんの双子君と鍛錬をして、その後、サーカスから逃げ出したライオンと追いかけっこして、刺客が襲い掛かってきたから、ハートの城の近くだと思ったんだけどさ。その後、トラップに嵌りそうになって、危ういところを、這い上がって、城だと思った方向に歩いたら、ここだったんだよねぇ。」
 指折り数える、長い遍路の末に、本棚をあの惨状にしたと。

 そんな悪路を進んできてもポケットから紅茶を入れた瓶を取り出し優雅に飲み干す。
 ユリウスが珈琲を勧めないことなど、気にしないらしい。
 一息ついて、にっこり笑う。

「八十時間帯で時計塔と帽子屋屋敷を往復できたんだから、進歩していると思わないか?」
 肯定しなければ、痛い目に遭うエースの微笑みだ。アリスは目を逸らしつつ、冷めた珈琲を最後まで飲み干す。

「・・・はぁ。」
 陰鬱な溜息をついて、ユリウスは自分の為に、もう一度珈琲を入れに席を立った。
 その背に浴びせかけるように。
「溜息は幸せを逃がすぜー。」
 麗らかな陽だまりと春一番を併せ持つ青年の声は、至極明るい。
「・・・眩しすぎる。」
 アリスの独り言に、殊更白い歯を見せて男は笑った。

「九十時間帯ぶりくらいだね、アリス。」
「・・・そうね。」
 本当はきっかり百と八時間帯ぶりなのだけれど。そんなことを言おうものなら、足がかりを与えてしまうようなものだ。

 話したいことも、言いたいことも山のようにある。
 それは一言で片付けてしまうと・・・

		



「俺が居なくて、寂しかった?」
 肯定も否定もできない言葉だ。笑いながら言われたのが、せめてもの救い。
 しばし、逡巡していると、回答を待つのに飽いたのか、また口を開いた。
「手を出して。」
 唐突な言葉に、アリスがぽかんとした顔をすると、エースは手をとって、手を椀の形に作った。

 そして、エースはぽんと自分の両のポケットを叩くと、右手から色とりどりのボンボンを取り出し、アリスの掌に落した。
 左手からも同じように薄紙に包まれたビスケットを。
 最後に、胸ポケットを、今度はポンポンと二回叩くと、小さな箱にふわふわの赤いリボンのかかった、小さな箱を取り出す。

「・・・可愛い。」
 ぽかんとした後、思わず、顔が綻んでしまった。・・・卑怯だ。
 何とか笑顔を噛み殺し、お礼の言葉を口に出そうとするが、喉に引っかかって出ない。
 いつも、無駄に爽やかなクセに、こんな時だけ、潤みのある目で見つめないで欲しい。
 ビスケットの甘い香りが、ふわりと辺りに満ちる。

「リングでもいいかと思ったんだけど。」
「え。」
 アリスは思わず口を滑らせた。慌てて表情を取り繕うが、もうこうなってはエースのペースだ。

「残念ながら、これはショコラ。」
 身体の各所サイズは何となく分かるんだけどね。
 そんなことを言いながら、菓子の小山の頂上にある小箱の、ふわふわの飾りリボンの飾り切りしたところを指で絡めようとして、逃げられている。
「非常食も美味しい方がいいよね。」
 にこっと純真無垢そうな笑顔で、神を恐れぬ贅沢を言う男。

「アミュレット(お守り)にネックレスを贈るなんて宝石商が言っていたけれど、この世界でそんな甘い考えで生きていけるワケないんだし。・・・男から贈られたネックレスを嵌めるなんて、俺が君に首輪を付けるみたいだよね。」
 それはそれで、俺は大歓迎なんだけど?
 唆(そそ)るように、目を細めて、顎を上げて。ついとその指の腹でアリスの頬のラインを顎先から耳の付け根にかけて撫で上げる。
 そのまま、彼曰く首輪のラインを辿る。

		



 ゆっくりと、吐息がかかる程度にエースの顔が近づく。
「ユリウスにも贈り物をすべきかな。三人で同じものをしているなんて薄ら寒くて反吐が出そうでとってもイカれているよね。」
 悪さをする彼は、アリスのスカートの脇に手をついて、それを静かにたくし上げ、その中に滑り込もうとしている。
 両の膝頭あたりを撫ぜて、そして。

「・・・これで、さっきのことは買収されてあげるわ。」
 寸前で、アリスは止めていた呼吸と共に、言葉を吐き出した。近づいた互いの唇の間に、ショコラの箱を滑り込ませる。・・・おかげでテーブルの上に菓子が散らかってしまった。

「それは・・・どうも。」
 エースは先ほどの気配は雲散霧消させて、澄み切った笑顔で答えた。
 目が笑っていないのよ。そう口にすることは憚られた。

 可愛くないやり取りに、自分でもうんざりするが、エースの気分を害したわけではなさそうだから、及第だったのだろう。


「エース。」
 奥からユリウスに呼ばれる。エースは短く返事をすると、アリスに悪戯っぽく微笑む。
「・・・俺を、ここで待っている?それなら覚悟を決めてよ。俺はここでだって構わないんだぜ?」
 アリスが少し表情を動かすと、額にキスをして行ってしまった。アリスは居た堪れなくなり、ポケットに溢れんばかりの菓子を詰め、席を立った。


「・・・意地悪だわ。退路を断たないなんて。せいぜい逃げろっていうことじゃない。」
 キスが欲しかった、抱擁も、それ以上も。

 エースを愛しているから、ユリウスだって愛している。
 暖めるような愛情だけでは食傷気味だと云うのなら、それ以上の混沌とした愛情だって枯渇することなく湧き出させてみせるのに。

「今は逃げるのが、お望みとあらば。」
 ユリウス宛のメモに失礼をする侘びを書いて、足早に時計塔を後にした。

		

to be continued...

web拍手レス

■中休み
たまには、アリスに拒否されて。
ヤツが理由もなく飴くれる訳もないと思うのですが。
可愛くしてみたので、話にちょっと艶が足りないかも。
ドジっこ成分多め。嫉妬とちょっとおかしいアリス。

[21/10/2009] Faceless.