第三章

 畏き辺りの秘密の小部屋。
 昼の時間帯、眠たそうに解語の花が、絢爛豪華な城の窓辺に寄り沿う。
 
 この花は、確知するは、花自身と、その弟の二人だけという秘事がある。
 それは、それぞれの睫毛の奥、目蓋の裏に隠されている。
 
 
「・・・眠い。」
 吐息が膝にかかえた、古参の縫いぐるみに罹る。
 そこに、顔を埋めてしまおうか?
 
 王冠は重い。顔を下げたら、きっと二度と起き上がれなくなってしまう。
 ビバルディは笑声を洩らした。
 治世の仕事は万事、王に任せてしまって何が女王か。
 役としての女王はこなしている。これ以上、わらわに何を望む。
 
 
「…Hush, baby. My dolly.(眠れ愛し子、私のお人形さん。)
 I pray you don't cry.(ねえ、どうか泣かないでちょうだい。)」
 
 
 ぽふ。ぽふ。ぽふ。
 綿の詰まったいつもの手応え。縫いぐるみをあやす仕種も次第に億劫になる。
「・・・。」
 縫いぐるみの手を、爪を立てて引っ張ってみる。
 「壊れちゃうわよ。」
 少女の声が聞こえた気がして、重たい瞼を引き上げたが、やはりそこに彼女は居ない。
 
 
 眠い、眠い。眠い・・・
 苑(あそこ)でならば、満ち足りた気分でいられるのに。
 仮臥ししたら、卯(ぼう※1)がその肩を枕に、上着を掛けてくれる。
 口紅を付けてしまったが「私は、マフィアだ。」と一丁前のそれらしい顔でニッと笑っていた。
 人払いはしてある。ここにはしばらく誰も来ない。
 

		



 ・・・寒い。ビバルディはぶるりと身体を震わせた。
 億劫だが、腰を上げる。鴬唇(おうしん)は歌を紡ぎ続ける。
 弟がそうしてくれていたように。
 
「And I'll give you some bread, and some milk by and by.(あとで、パンとミルクをあげるから)」
 
 パンとミルクごときで満たされるものなら、わらわはとっくに満たされている。・・・それを感じられぬのは何故か?
 女王にであることが不満か?・・・いや、わらわより女王に相応しいものなぞおらぬ。
 それに、役を辞する方法なぞ、知るものはおらぬ。万が一、降りられたとしても、満たされるとは思えぬ。
 
 際限のない考察は彼女を苛む。眠い、眠い、眠い・・・
 「どうせ、眠るならば。」
 ・・・心の赴くまま、女王に与えられた異能の力を使った。
 
 自分を締め上げるコルセットと足枷のような靴には慣れている。否、それよりも躯を締め付けるものが、ある。
 
 縛られないものが、ついと躯を動かし始めた。
 
 滑るように走りだす。
 走る?何故わらわは走っている?
 
 ケープを羽織り走る。
 何故、わらわはそのようなことをしておるのだ?
 
 異能の力が心と躯の歯車をちぐはぐに動かす。
 
 全てが眠い。だが、眠れぬ。
 脚を動かす。ここは、上り?それとも下り?考えても答えが出ぬもの。それが答え。
 振り返ったらもう二度と出られぬ迷い道。
 
			



 迷わなかった褒美は、徐々に聞こえ出す水音。
 ややして、眼前に一面に広がる、城とは違う、少し優しい色の赤い薔薇のお出迎え。
 噴水の音が少し乱れたビバルディの息遣いを隠してくれる。
 
 俗称、帽子屋ファミリーと呼ばれるマフィアのテリトリーの中枢に辿り着いていた。
 統括するマフィアのボス。ブラッド=デュプレが自ら手塩にかけた、秘密の薔薇園。
 
 呼吸が少し乱れた故、いつしかビバルディは謡うことを止めていたのだが・・・
 
 ・・・相変わらずの、装飾夥多な服装、射干玉の髪をその帽子に納めた男は、ビバルディのほうを振り向いて、そのまま、彼は彼女と同じ歌を口遊む。
 
「Or perhaps you like custard or maybe a tart.(あなたは、カスタードのタルトがお好みだろうか。)」
 
 伊達男を気取った所作。ビバルディの姿を把握すると、背筋を伸ばして向き直った。
 
 御髪の少し乱れた美しさは、男が好むもの。
 走ってきたから、どうしても、高々と結い上げたものは、崩れてしまっただろう。
 教育の成果か、忌まわしい王冠だけはしっかりその頭に鎮座しているのだが。
 
 夕の時間帯に変わったばかりのこの園が、美しく染まっている。
 腕を広げて近づいてくる男の白い上着さえも、紅茶色に染め上げる。
 誰が見ても、美しい所作そのもので、ビバルディはブラッドの腕に身体を預けた。
 
 
「…Then to either you're welcome, with all my heart.(どちらにしても、あなたにならば私は心尽くしを致しましょう。)」
 
 抱擁の腕の中で、宥めるように謡い聞かされる。園丁の真似事をするブラッドの服は少しだけ、草いきれの匂いが染み付いている。
 
 「おまえの心尽くしなぞ・・・気味が悪くて仕方がない。ここに来たからには、わらわは帰る場所に帰らねばならぬ。それがルールじゃ。」
 女王としての異能の力の影響力が破綻しないうちに。
 役持ちなら今更明言する程の無いこと。
 たりとて帽子屋も、易々と帰すくらいなら、このような女王を惑わす仕掛けなぞ、張り巡らせていない。
 
		



 ここは誰にも知られて居ない、二人だけの約束の地。・・・常識を捨てきれぬ男が選んだ道。
 その無様さが、ビバルディの靄を少しだけ取り払う。

「心尽くしされるより、全てを奪うのが、わらわの流儀じゃ。」
 にぃと笑い、男を上目遣いに見上げると、肩をすくめてそれに応じられた。


「わらわはハートの女王ビバルディじゃ。」
「・・・ああ。」
「ぬしを殺し、その領土を我が物とする。」
「その時は俺の時計を止めてくれるか?」
「ここで、そのような俗事、わらわに問うかや?無粋極まりない・・・。」


 ビバルディは嫌そうに口にしたが、思いついたように笑った。
「また、口紅を付けてやる。」
 その言葉に、存外困った顔をして男は口を開いた。
「エリオットが・・・いや、うちの門番達がというべきか・・・とにかく、うちの舎弟共が『女の影』に、気を利かせている。楽しんでいる輩もいるが。・・・全く退屈しないことだ。」
「下賎な。」
 言葉に反して、その口調はことを愉しんでいる。

「しかし、それは面白い。それがわらわじゃと知れたら、このような美しい園はひとたまりものう、消し飛ぶのう・・・。どれ。」
「・・・そうやって、紅を付けるから俺の好みは豪奢な女だと謳われるんだ。」
 シャツに、わざとらしいほどの痕をつけてやった。
 吸って、くちゅりと咥の音も遺した。しがみついて、ついでに移り香でもすれば好い。

 ふふ、ふふふ。
 ビバルディは満足し、身体を離す。ブラッドは、完全に身が剥がれる前に、その手を牽引し、東屋に導く。
 子供の頃、握り合った手そのもの。少ししっとりした体温の高い子供同士のようだ。

		



「・・・少し待っていろ。」
「わらわに命ずるでない。」
 笑声交じりに、園丁小屋からブラッドが紅茶を運んできてくれた。
「おまえが淹れたのかや?」
「さほど、珍しい茶葉ではないが、私の定番だ。少し目が醒める。」
「・・・悪くない。」
 吐息が細くたなびく。
「毒が入っておらぬものは、しばらく口にしていなかった。」
 あれは、眠くなる。そのまま、息絶えるのも悪くはないのだが、もっと面白いものが見たい。
 わらわの霞んだ視界を晴らしてくれるもの。早ぅ来てたもれ?


 湯気に心安らぐ。小さな皿に、皮肉のように小さなカスタードのパイが添えられていた。
 行儀悪く指で抓み、口に放り込む。ブラッドも笑って、それに倣った。

「滑稽だ。実に退屈しない。敵地でこそ安心できるものを口にできる女王陛下と拝謁どころかお茶を共にできるとは。」
「ふふ、ここでは、わらわはお前の『囲われ者』だろうが。」

 ぐっとブラッドの襟首を引き寄せる。
 飴にする視線と、剣呑な視線が交差する。このままではビバルディの手は乱暴に払われるだろう。女王陛下は唇を湿して、その耳に毒を流し込む。
「・・・事実にしてやろうか?・・・」
 顔色を変えないのは、我が弟ながら流石。
「冗談じゃ。」
 互いの空気が緩むのは、予定調和。


 カスタードのパイには、お節介にも解毒剤が仕込んであった。巧く隠したつもりだろうが、ビバルディの舌はそれを見つけ出した。

「・・・ようも、まぁ。我が城の宰相の使う毒の情報を把握しておること・・・。」
「私は退屈が嫌いだ・・・私の手にかかるならともかく、城で自滅するなんて退屈過ぎる。」
「眠るように逝けたかもしれぬのに。」
 常ならば一笑に付すところであるが、頬にかかる、睫毛の影が彼女の真意を瞳の奥底に閉じ込めてしまう。

		



「・・・計画通りに物事が運びすぎるのは退屈だろう?滅茶苦茶に壊してやりたいのを半壊で終わらせてやったんだ。私も成長したものだと思わないか?」
 なんと言っても、役持ち二人の計画を潰してやったんだ。その功績は大きい。

 そうやって、オレンジ色の日差しに目を細める姿は、幼い頃の面影を色濃く醸し出す。

 暫しの沈黙の後、それぞれに「くふ。」「っは。」と短い笑声が穏やかな空気を齎(もたら)す。

「・・・の、・・・わらわは眠い。」
 立ち上がろうとすると、ブラッドは再びビバルディの手を引いた。されるがままに、東屋のベンチに誘われた。

「膝を貸しやれ?」
 答えを聞かずに、傍らに座るブラッドの大腿に頭を乗せる。ここにも少し紅が付いた。こちらの方が含蓄するところが大であろうが、下世話な者共は勝手に騒げば好い。

「・・・。」
 ビバルディの肩から脇腹にかけて、温もりと程よい重さが圧し掛かる。大腿に添えた手の爪を齧ろうかと思ったら、それを制された。

「悪い癖だ。」
 そのまま、手を離そうとしない。
「・・・わらわはそんなに信用ならぬか。」
「ああ。唐辛子の汁を塗ってやりたい程だ。」
 そなたは、生意気じゃ。・・・そう口にするつもりが、面倒になって、瞼を閉じた。


 程なくして寝息を立て始めた姉の、よく見ると幼い顔を弟が眺める。
 落日の余映を、その婉麗たる存在に全てを受け止めながら。

		



「このゲームの覇者は私だ。」
 ブラッドはそう心に決めている。
「狂ったルールに、狂ったゲームの参加者。故に、覇者は最も狂ったものである。」
 握ったままの手の紅差し指の腹の感触を楽しむ。

 幼い頃と変わらぬ、見た目よりはしっかりした感触。もっと柔らかだろうと期待してしまった自分にブラッドは苦笑する。


 この姉は、女であることを、無理に愉しんでいるようだ。それこそ自分を苛むように。
 ブラッドも男である。それなりに欲に溺れることもあった。・・・それほど執着はしなかったが、それなりに退屈しないものとして、愉しんでいる。


 男は代償の相手であっても、それを悪しとはしない。女とは根本が違うとブラッドも思うところがある。


「・・・ぅ・・・。」
 ビバルディは寒いのか、上半身を丸めた。ブラッドは起こさないように、自分が差し伸べた腕と反対側だけ上着を脱いで、ビバルディに掛けた。
 無いよりマシだろう。

 よく、このような硬いベンチの上で横になる気になるものだ。幼い頃からの気まぐれを思い出して、ふっとブラッドは背を木製のそれにもたせかけた。

 禁忌という響きにこそ、淫靡なものを感じるかと問われれば、そのような面倒な趣味はないと即答できる。
 しかし、現実にこのような環境であれば、抗い難い誘惑が時々、感覚を麻痺させる。

 余所者がそれを払拭してくれるかと思ったが、それはそれの別物だったようだ。
「・・・。」
 ブラッドはついつい自嘲気味の笑みを浮かべる。

		



 実は本物の『ブラッド』は死産で、どこかの庶子と取り替えられたなどという、陳腐な秘話の存在がないか、あの母親に聞いてみるのは退屈しないかもしれない。
 ハートの城の女王陛下と帽子屋ファミリーの巨魁を送り出した股座(またぐら)の持ち主だ。役なしの国民とはいえ、隠れた傑物の役持ちの候補者だった可能性もある。


「・・・?」
 ここは、領主が許可した者しか入れない秘密の薔薇園。
 しかし、それほど隔てていない屋敷森の向こうの、門番たちの声は高らかに響いてくる。耳を澄ませば叫ぶような会話を聞き取るのは難しくない。

「・・・だから、城から出てくるな!」
 鍔迫り合いの音が何交かして、高い金属音。獲物が落ちる音が重たい。
 斧があの飾り物のような大剣に巻かれ、飛ばされたのだろう。そのまま、生身に容赦なく剣の塚で一撃が入ったような音がする。
「兄弟!」
 もう一人の門番の声もする。こちらの被害が甚大になる前に、主として場を納めに行くべきか?と、ブラッドは迷った。

「わらわが居るのに、行くのかや?」
 殺気で起きるのは、王族に連なるものだからか。先ほどとは違い、目を爛々と耀かせて身体を起こした。

 艶のある悪戯な視線を向けたかと思うと、そっとその身を持たせかけてブラッドの動きを静止する。

「頭取たる者、部下の仕事を取り上げてはならぬ。それがノーブレス・オブ・リージュ(高貴なる者の務め)などと、口はばったいことは言わぬがの。」
 赤く染めた爪で、ブラッドの上着の飾りボタンを意味深く弄ぶ。

「・・・生憎と、こちらはただの荒くれものの首領だ。」
「そうじゃのう、情事の最中を邪魔されたような・・・上着を半分脱いで、紅を付けた出で立ちで部下の前に出られるのであるからの。」

 そうさの、野合の最中のようじゃ。
 そう呟かれて、あらぬ妄想を抱かない男など存在しないだろう。

		



 くふ。と嗤うビバルディと反対側を向いて、その誘惑から抗った。無慈悲な女王陛下は、両手でブラッドの頬を掴み、自分の方に向けさせる。
 潤みのある、強い瞳。それは、マフィアさえも従えさせるの。

「・・・あれはハートの騎士であり、負けなどせぬ。ゲームに勝ち、お前の門番達から道を教示される。」
「・・・随分と高く買っているじゃないか。」
「男の嫉妬は醜い。」
「・・・!」
 じとっとした目で見られると、瞬時に、羞恥と憤怒で頬が染まる。
「・・・可愛いの。」
 満面の微笑みを向けられても、その手を振り払うことしかできない。
 ・・・できるだけ、穏便にそうしてしまうから、この触れば落ちなん風情を持つ姉から主導権を奪うことができないままだ。

「『可愛い』とは、男の矜持心を抉る言葉なのだが。」
「わらわにそう言われることは、嫌いでは無かろう?」

 口の減らない・・・そうだ、今まで一度たりとて、勝てたことは無いのだ。

「・・・往くな。この夕の時間帯が終わるまでは。わらわと。」
 金色の光をその潤んだ視線で反射させて、曖昧に微笑む。

「・・・今はあの子も一緒のようじゃ、面白い惨劇になるとも思えぬ。いつでも見られるゲームじゃ。」
 笑声を含んでいなかったら、誘惑に盲目になれたであろうに。
 溜息をついて、緊張を解くと、きゅっとブラッドの掌を両手で包んできた。
 見なくても分かる、そこには変わらぬ、幼い笑顔で満ちているのだ。

「・・・タンポポの綿毛。」
「何じゃ?」
 本当に子供の頃と変わらぬ表情できょとんとする。その顔にブラッドは、くっと口許だけで笑った。
 幼い頃、この姉の気まぐれさを、タンポポの綿毛に喩えた自分が居た。それは変わらず今も存在するようだ。

「・・・あちらも雌雄を決したようだぞ。」
「うむ。アレの勝ちじゃ。・・・わらわの庭を荒らす不届きな奴等のべそが見たかったが、まぁ良しとしてやろう。」
「うちの門番が、それほどまで仕事熱心だとは、な。」

 単身ということはないだろうから、二人で敵地へ。ハートの城の役さえ持たない兵士達が頭数揃えたら、自分達に一矢報いることでもできるかどうかを確かめに行ったのだろう。
 なるほど、溜まる鬱憤はどこかで発散させねばなるまい。


「きゃつらの首を刎ねずに居るわらわの寛容さに感謝するが佳い。」
 ブラッドは思わず笑ってしまった。連れられてビバルディも口許を隠して笑った。

		

to be continued...

web拍手レス

※1卯(ぼう)とは。弟のことを[卯君]と言います。二番目の子や次男の意味が強いです。
お坊ちゃんの坊と掛詞になっています。使用頻度の少ない言葉なので、蛇足ながら解説まで。

■中休み
一方薔薇園では。と、視点を変えての三話目です。
帽子屋屋敷の門の辺りで騒いでいますが。ビバ様は知っているんだよーと主張してみる。
単に、弟をからかっているビバ様と女慣れしているシスコンブラッドを書きたかった。
エスアリ的には「なんか知らぬ間に見られちゃったよ」とちょっと恥ずかしい状況ですかしらね?

[20/10/2009] Faceless.